初春
元日の午後、文弥は母に結城紬の着物を着せてもらい、上に羽織を羽織るとその上から古風な二重回しを着せ掛けてもらった。
それは、亡くなった父、神海文二朗画伯が生前着ていたもので、唯一、形見として母に下げられたものだった。
堂々とした体躯の兄と違い、父も文弥のように小柄で痩せた体付きをしていたから、それは文弥の為に誂えたかの如く、良く身体に合っていた。
ウールのマフラーを首に巻いてもらい、紺色の縮緬の風呂敷に包んだ年始の品を渡されると文弥は玄関へ足を向けた。
だが、目出度い正月の午後だと言うのに、その足取りは重かった。
毎年、本家である神海家への年始の挨拶には、敷居を跨ぐことを許されていない母の代わりに文弥が訪れていた。
神海の本家には、文弥が会いたくて堪らない兄の文彦がいる。
だから、妾腹の子として他の親戚や姉に冷たい眼で見られても、文弥は辛いとは思わなかった。
たった数十分の逢瀬でも、兄の顔を見られるだけで嬉しかったのだ。
だが、今年からは、その傍には文彦の美しい妻がいる。
2人並んだ姿を目にするのは、文弥にとっては初めてのことだった。
そして、何よりも辛いことでもあったのだ。
「いって参ります」
「はい。文彦さんによろしくお伝えして…」
「はい」
父が死んで、その財産を分けてもらえないと知ると、もう神海家など母にとってはどうでもいいものになってしまった。
ただ、今住んでいるこの屋敷に自分と文弥が死ぬまでは住まわせてくれることと、それから本家の金で家政婦だけは雇ってくれているので、恩恵といえばその程度しか感じていないだろう。
文弥が本当は文二朗の子ではないことを、文彦は知っている。
だからこそ、財産分与を受けられないと知っても、母は何も言えなかった。
だが、その文彦が何故か文弥を可愛がり、時折訪ねてくれることを知り、或いは何かしらの援助を受けられるのではないかと期待しているらしかった。
確かに文彦は“死ぬまで面倒をみてやる”と文弥に言ってくれた。
だがそれは、身体の弱い文弥が自分よりも長く生きられないことを知っての言葉だった。
そして、その言葉の裏には母の知らない意味も隠されていた。
母が頼んでくれたハイヤーが門の外で待っていた。
文弥はその車に乗り込み、神海の本家へ向かって出発した。
いつも通り、妙に余所余所しい家政婦の出迎えを受け、文弥は旅館ほどの広さがある本宅の玄関でマフラーと二重回しを脱ぐと下駄を揃えた。
案内されて長い廊下を歩き、奥の座敷へ通る。
雪見障子を開けると、そこには正月の祝い膳が乗った座卓が用意されていた。
先ず、父の仏壇に線香を上げ文弥が手を合わせていると、障子が開いて兄夫婦が入って来た。
立ち上がって、座卓の前に膝を突くと、文弥は兄夫婦に向かって頭を下げた。
「明けまして、おめでとうございます。本年も、どうぞ宜しくお願い致します」
「おめでとう」
「おめでとうございます」
兄夫婦に口々に挨拶され、文弥は深く頭を下げ直した。
「身体の具合はどうだ?」
訊かれて文弥は顔を上げると兄を見た。
「はい。お蔭様で、この所大分調子がいいです」
「そうか、良かったな」
「はい…」
暮れは何かと忙しく、兄は別宅へは来てくれなかった。
だから、会うのは、ほぼ一月ぶりだった。
(兄様…)
止めようとしても思いが込み上げる。
じっと兄の顔を見ていると、その隣から声が掛かった。
「文弥さんは、お酒は召し上がれないんでしたね?今、福茶でもお持ちしましょう」
ギクリとして、文弥は兄の顔から目を逸らした。
「は、はい。すみません…」
艶やかな薄紅色の友禅は、この正月の為に新調したのだろう。白い梅の散った美しい柄だった。
そしてそれがよく似合い、更に義姉の美しさを引き立てていた。
熱っぽい目で兄を見ていた事を気付かれてしまっただろうか。その後姿を不安げに見送っていた文弥に、今度は文彦が声を掛けた。
「何か食べたらどうだ?」
「い、いえ…。お昼は済ませて来ましたので…」
自分の離れの部屋で逢う時とは違い、文弥の口調も態度もやはり何処か余所余所しくなった。
「金団は?」
黒塗りの重の中に盛られた艶やかな黄色い栗金団を指し、文彦は言った。
「いえ…」
「好きだったろう?」
辞退しようとした文弥に被せるようにして文彦は言った。
元旦に本宅へ呼ばれて兄と一緒に過ごしたのは、子供の頃のほんの数回に過ぎなかった。
「覚えて…?」
驚いて顔を上げると、笑みを浮かべた文彦の顔があった。
「当たり前だ」
言いながら菜箸を取り、文彦は小皿に栗金団を取り分けると文弥へ向かって差し出した。
「ありがとう…、兄様…」
たったこれだけのことが嬉しくて、それを受け取る文弥の手は震えていた。
「綺麗…」
鮮やかなその色が目に沁みる。
涙が滲んだのはそれの所為だろうと、兄がそう思ってくれるといいと思った。
間もなく、義姉が福茶を持って戻り、2人と暫く世間話をすると、文弥は暇を告げた。
すると、兄が立ち上がりながら文弥を手招きした。
「俺の部屋に来い、文弥。お年玉をやろう」
笑いながらそう言った兄に、文弥は驚いて首を振った。
「そ、そんな…、もう子供じゃないですから」
幼く見えるが文弥はもう20歳を過ぎている。
それに、父が死んでからと言うもの、誰からもお年玉など貰った覚えはなかった。
「いいから。今年は特別だ」
「頂いていらっしゃいな。お兄様がああ仰ってるんですから、遠慮することはないですよ」
義姉に背を押され、文弥は軽く頭を下げると、戸惑いながら兄に付いて行った。
兄の部屋は、結婚前と変わっていなかった。
勿論今は、寝室は義姉と一緒なのだろうが、独身時代に使っていたベッドもそのままになっていた。
多分、今は書斎代わりに使っているらしいこの部屋で仮眠を取ることもあるのだろう。
促されて文弥がソファに座ると、文彦はテーブルの上に乗っていた平たい桐の箱を開けた。
中には、畳紙に包まれた着物が入っていた。
それを文弥の前に置き、文彦は紐を解いて中味を見せた。
「兄様…?」
驚いて見上げた文弥に文彦は頷いて見せた。
「おまえのだ。笙子の晴れ着を見立てる時に目に付いたので」
では、義姉の着ていた友禅は兄が見立てたものだったのか…。
本当に、あの着物は義姉にとても良く似合っていた。
そして、自分にまでこうしてわざわざ見立てて誂えてくれたのだ。
だが、嬉しい筈なのに、その気持ちよりも嫉妬の方が大きくなる。そんな自分が情けなく、そして兄に申し訳ないと感じた。
「嬉しいです…、兄様…」
そう言って笑みを浮かべて見せたが、それが心から出たものではないと、きっと兄は気付くだろうと思った。
銀と言うよりは殆ど白い大島。
僅かに薄く、桜の色が散っていた。
男に見立てるには少々変わった柄だっただろう。
だが、多分文弥には良く似合う筈だった。
「もうひとつある」
文弥の気持ちを知ってか知らずか、文彦は表情を変えずに懐に手を入れた。
差し出されたのは歌舞伎のチケットだった。
「1度見たいと言っていただろう?4日には身体が空く。これを着て一緒に行こう」
「そんな…」
それ以上、言葉は出なかった。
文弥は首を振り、だがしっかりと兄の首に腕を回した。
どんなに嬉しいか、どれほど幸せか、言葉には出来なかった。
三が日は年始の客があり、5日には仕事始めの筈だった。
その、たった1日しかないその日を、兄は自分の為に使ってくれると言う。
胸がいっぱいで、もう何も言えなかった。
美しい義姉に醜く嫉妬した自分を、兄は少しも責めなかった。
反物を当てて見せる義姉にどんな笑顔を送ったのかと、そればかりが気になって贈り物を喜ぶことさえ出来ず悋気したのだ。
だが、それを知っていながら、兄は自分の気持ちを宥めようとしてくれているのだ。
「まさか、ここでは抱いてやれん…」
笑いながらそう言い、文彦はしっかりと文弥の身体を抱きしめた。
「熱なんか出すなよ?ちゃんと元気でいろ。約束だぞ?」
「…はい…」
コクコクと頷き、文弥は兄の肩に額を押し付けた。
永遠に、自分だけのものになってくれることはない。
だが、こうして傍にいてくれる時、兄の眼が自分だけを見てくれていることを、文弥は知っていた。
だからこそ、生きていける。
この兄の腕に縋って、生きていけるのだと思う。
「泣いたら眼が赤くなるぞ。いい年をして俺が苛めたのだと思われたらどうする?」
冗談口で兄が言った。
それに釣られて文弥もクスリと笑ったが、それでもその眼に溢れた嬉し涙が止まることは無かった。