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桜音と付き合っている頃、豊海は髪を洗っては良くアパートの屋上へ行った。
今は、寒くなったこともあって、ずっと屋上へは行っていなかったが、休みの日、ふと思い出して豊海は久し振りに上ってみた。
曇りで、空は灰色だった。
風が冷たく、頬を刺す。
目を細めて、豊海は屋上の手摺に近づいた。
約束した日は、桜音が来るのを待って、ここからずっと下を見ていた。だがもう、あの角を曲がって懐かしい姿が現れることはない。
以前は、それが辛くて思い出しただけで涙が出た。だが、今はやっとここに立つことが出来るようになったのだと思った。
あれから、小山内と何度か遊びに行ったり、部屋に来てもらったりもした。
何度もキスをして、求められてセックスもした。
恋人だと言ってもいいのかも知れないと思う。だが、豊海の中には、まだはっきりとした気持ちが湧いて来なかった。
「あ、そうだ…。ヒロさん、カレーが食べたいって言ってたな」
思い出してそう呟くと、豊海は買い物に行く為に屋上から降りた。
昼間は叔父さんの手伝いがあるとかで、小山内は夜になってから来ることになっていた。上着を着てバッグを持ち、豊海は部屋を出てマーケットへ向かった。
一瞬、傘を持って行こうかと迷ったが、予報では雨は夜になってからだと言っていたし、まだ大丈夫だろうと思い持って出なかった。買い物をして荷物が増えると傘は邪魔になると思ったのだ。
肉を買う時はいつも品揃えが良くて安い方の大型マーケットへ行く。今回も、近い方のマーケットを通り越して、そちらへ行くことにした。
此方のマーケットは桜音の部屋が近い筈だったが、まさか、もう偶然に出会うことなど有り得ないだろうと思った。
そんなに自分と桜音に縁などある訳がない。縁があるなら、もっと傍にいられた筈だと豊海は思った。
カートを押して、野菜売り場から先に回り籠に品物を入れていった。
カレーの材料は重い物が多いので本当は近くで買った方がいいのだが、この店の方が安い上に品物も新鮮だったから、豊海は誰かに料理を作る時には此方まで買いに来ることが多かったのだ。
小山内はチキンカレーが好きだと言っていたので肉は鶏肉の手羽元を買った。
それから、野菜とルーやヨーグルトなどを買い、豊海は店を出た。
両手に荷物を持って外に出ると、まだ大丈夫だろうと思っていた雨が降り始めていた。
「あ…」
雨はまだ小降りだったが、空は大分黒い雲に覆われていて急がないと強くなりそうだった。
戻って傘を買おうかどうか迷ったが、荷物もあるし、豊海は急いで帰ることにしてそのまま歩き始めた。
だが、200メートルも行かない内に雨が大粒に変わった。
(ヤバい……)
この雨の状態では部屋に着くまでにびしょ濡れになりそうだった。この季節では、確実に風邪を引くだろう。
やはり、戻って傘を買おうと向きを変えた時、サッと豊海の頭上に傘が差し掛けられた。
ハッとして目の前の人を見上げると、そこには桜音の顔があった。
「桜音……」
呆然として豊海が名前を呼ぶと、桜音はフッと笑みを浮かべた。
「買い物?この雨じゃ、傘無しは無理だよ。また風邪引くぞ」
「う…、うん。今、そう思って傘を買おうかと…」
「ウチ、すぐそこなんだ。良かったらおいでよ。予備の傘もあるし、貸すから」
「で、でも…」
豊海が躊躇うと、桜音はサッと手を伸ばして彼の荷物をひとつ取り上げた。
「遠慮することないよ。ほら、おいで」
半ば強引に誘われて、豊海は桜音の傘の下を歩いて行った。
もう、偶然に出会うことなどないと思っていたのに、またこうして桜音に出会った。だが、今の豊海にはこの奇跡を素直に喜ぶことは出来なかった。
そっと気付かれないように目を上げて並ぶ桜音の顔を盗み見た。
それだけで、まだこんなにも胸が痛む。その痛みを、いつになったら消せるのだろうかと豊海は思っていた。
「何処かに…行く途中だったんじゃないの?」
豊海が訊くと、桜音は頷いた。
「うん。コーヒーが切れて…。でも、インスタントならまだあるから、明日でも構わないし」
豊海はただ頷き、それからは黙って歩いた。
言う通り、桜音の住んでいるマンションはそこから5分も歩かなかった。
玄関に買い物の荷物を置くと、桜音は豊海を中に入れ、すぐにバスルームへ連れて行った。
「シャワー浴びるといいよ。髪がびしょ濡れだし、そのままだと風邪引くから…」
「い、いいよ。そんな…、大丈夫だから…」
「駄目だ。ほら、いいから入って。…バスタオルはここ、シャンプーやなんかは中にあるから」
そう言い残すと桜音は部屋に戻って行った。
躊躇ったが、豊海は服を脱いで裸になるとバスルームへ入って行った。確かに、髪がすっかり濡れて少々寒気がしていたのだ。
シャワーを使わせてもらい、熱い湯を浴びて温まると、豊海はバスルームを出た。
身体を拭いて服を着ようとすると、籠の中に脱いだ筈の自分の服が無くなっていて、代わりに桜音のものらしい服が置いてあった。
豊海の服は濡れていたので、桜音が気を使って出してくれたのだろう。手に取ったそれを暫く眺めていたが、豊海は仕方なく下着を着けるとその服を着た。
思った通り、大き過ぎて引き摺ってしまう。豊海はジーンズを何度も折り返してウエストを押さえながら部屋に入った。
「ぷっ…」
豊海の姿を見て吹き出すと、桜音はクローゼットからベルトを取って豊海に渡した。
「はい。これ使って」
「ありがと…。あの、俺の服…」
「ああ、乾燥機に入れたからすぐに乾くと思うよ。それまでそれで我慢して?」
「あ…、うん。ありがと…」
頷くと、豊海はやっと部屋の中を見回した。
綺麗に片付いている1LDKの部屋で、当たり前なのだが一緒に暮らしていた時とは違い、そこには桜音の物が沢山置いてあった。
いや、全てが桜音の物なのだ。
豊海の家に居候していた時の桜音は、下着や服が入っている大き目のボストンバックひとつしか持っていなかったから、他には歯ブラシと文庫本くらいしか持って来なかった。
豊海が珍しそうに周りを見ていると、桜音がソファに座るように勧めた。
「座れよ。紅茶でも飲む?牛乳があるからミルクティにしようか?」
訊かれて、豊海は急いで首を振った。
「何にも要らないよ。服が乾いたらすぐに帰るから、気を遣わないで…」
「どうして?時間、無いの?」
そう言われて、豊海は戸惑った。
ここに自分がいることを、桜音は不自然だと思わないのだろうか。
「時間は…、あるけど…」
「なら、ゆっくりしてけよ。別に急いで帰らなくてもいいだろ?」
「で…、でも……」
口篭った後で、豊海は言った。
「桜音は…、何か用があるんじゃないの?…誰か、来るとか…」
「いや、俺も今日は何も予定は無いんだ。だから、大丈夫。座って?」
「…うん。ありがと…」
頷いて、豊海は恐る恐るソファに腰を下ろした。
無意識に、桜音の部屋の中に別の人間の存在を探していることに気付いたが、豊海は何処にもそれを見つけることが出来なかった。
女性の物も、女性が選んだらしい物も、桜音の部屋には何も無い。だが、間違いなくあの時の女性がここに出入りしている筈だった。
「はい。砂糖、少し入れた方がいいんだっけ?」
湯気の立つミルクティのカップを差し出しながら桜音が言った。
「う、ううん。このままでいい。ありがとう…」
豊海はそれを受け取ると両手で包んだ。桜音は自分の分のカップを持ったままで、その隣に腰を下ろした。
「元気だった?…あの後、気になってたんだ…」
「うん…。あの、ごめんね?ちゃんとお礼も言えなくて…」
「お礼なんて言う必要ないよ。俺は別に何もしてないから」
「そんなこと無い。心配してくれて、優しくしてくれて嬉しかった。…それなのに俺…、また嫌な気持ちにさせて…。ほんとにごめんなさい…」
「豊海…」
カップを置いて、桜音は豊海の方へ向きを変えた。
「嫌な気持ちになんかなってないよ。…俺こそ、却って辛い想いをさせたんじゃないかって、ずっと気になってた」
桜音の言葉に豊海は首を振った。そして、手に持ったカップを口元へ運ぶと、熱いミルクティをゆっくりと飲んだ。
「俺…」
口からカップを離すと、豊海は言った。
「桜音と会えて嬉しくない時なんかないよ…。いつでも、本当は嬉しい。凄く嬉しい…。でも…、そんなの桜音は知りたくないと思うから…」
「豊海…」
「ご、ごめん…。変な意味じゃないんだ」
急いでそう言うと、豊海はまたカップに口をつけた。
「荷物…凄いね。いっぱい買い物したんだ?…今夜、誰か来るの?」
話題を変えようとしてか、桜音がそう言った。
「うん…。ヒロさんがカレー食べたいって言うから、買い物に来たんだ」
「そう…。この前の彼、カッコいいよね。……付き合ってるの?」
躊躇いがちに桜音は訊いた。
豊海も頷くのを躊躇った。だが、桜音から目を逸らしたままでコクリと首を動かした。
「俺なんかの何処がいいのか分かんないけど、でも…、好きだって言ってくれたんだ…。桜音が言った通りカッコ良くて女の子にもモテるし、凄く優しくて、いい人だし、俺には勿体ないような人なんだ」
「そんなことないよ。豊海を好きになる気持ち…、分かるよ」
その言葉に、ピクッとカップを持った豊海の指が揺れた。
嘘だ。
そう豊海は思った。
だったら何故、別れなければならなかったのだろう。
「お…、桜音には信じられないかも知れないけど、ヒロさんは俺のことちゃんと恋人として見てくれる…。身体も全部…、ちゃんと愛してくれるから…」
ガタガタとカップを持つ手が震え、豊海はテーブルの上にそれを置いた。
「それ…、彼とセックスしたってこと…?」
信じられないと言いたげに、桜音は訊いた。
鼻の奥がツンとして目に涙が滲むのが分かり、豊海は益々下を向いた。
「…だって、彼氏だもん…。もう…、何度もしてる」
震える声で、豊海は答えた。
何故、涙が出るのか、こんなにも辛いのか、その理由が分からなかった。それでも、本当のことを豊海は桜音に言いたかったのだ。