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部屋に帰って、すぐに桜音の貸してくれた服を脱ぐと豊海はそれを洗濯機に入れた。
入れる前に抱きしめてしまいそうになったが、わざと放り投げるようにして未練を断ち切った。
着替えて、カレーを仕込む為にすぐに台所に立った。
玉葱を刻みながら、出てきた涙を拭うことも無く思い切り泣いた。
桜音の感情は嫉妬などではない。ただの所有欲だ。
分かっていても、どうしようもなく泣けた。
悔しさと、腹立たしさと、そして戸惑いとが綯い交ぜになって豊海を襲い、仕舞いには料理を作りながら泣きじゃくっていた。
肉と野菜を炒めて煮込み、一息つくと、豊海は放心したようにそこに座った。
帰って来て、唯一の暖房器具である炬燵も点けずに料理を始めていた。火の気は鍋が掛かっているコンロだけだったので、部屋の中は寒かった。
床の上に座ると冷えたが、立ち上がる気にもなれなかった。
今から戻ってしがみ付いたら、桜音はまた傍に居てくれるようになるのだろうか。
そんなことをぼんやりと思い、豊海は涙で強張った頬を擦った。
不確かな桜音の言葉に縋り、あんなに優しくしてくれた小山内を自分は裏切るつもりなのだろうか。
そう思うと、豊海は酷く切なくなって深く溜め息をついた。
身体まで繋げた相手を、そんなに簡単に断ち切ることなど出来ない。そうは思っても、豊海は桜音の言葉も表情も忘れることは出来なかった。
膝を抱えてそこに顔を埋める。そして豊海は、また静かに泣いた。
桜音が好き……。
こんなにも、どうしようもないほど、豊海はまだ桜音が好きだった。
スプーンを止めて小山内がじっと此方を見ているのに気付き、豊海は顔を上げた。
「なに…?美味しくなかった?」
不安そうに豊海が訊くと、小山内はフッと笑って首を振った。
「ううん、そんなことない。凄く美味しいよ」
「そう?良かった…」
ホッとして、豊海が笑みを浮かべると、小山内の唇からは笑みが消えた。
「目が真っ赤だよ。泣いたの?」
「あ…、うん」
手を上げて瞼を押さえながら豊海は頷いた。
「今日は玉葱をいっぱい入れたから、凄い涙が出ちゃって…。まだ、目の縁がひりひりするんだ」
「そう。でも、だから美味しいんだね、きっと」
「…うん。ありがと」
また、勢い良くスプーンを口へ運びながら嬉しそうに笑う小山内を見て、豊海は頷いた。
桜音と会ったなどと言ったら、きっと小山内は嫌な気持ちになるだろう。誤魔化せるものなら、誤魔化したいと豊海は思っていた。
だが、勘のいい小山内は、すでに豊海の様子がおかしいと気付いているのかも知れなかった。
カレーを食べ終え2人で汚れた食器を片づけ、デザートに小山内が買ってきたプリンを食べると、2人は暫くの間、テレビを見て過ごした。
小山内は豊海の様子がおかしいことに気付いているのかも知れなかったが、何も訊こうとはしなかった。
お茶を淹れ替えようと豊海が立ち上がると、小山内はその腕を掴んで自分の方へ引き寄せた。そして、座った豊海を腕の中へ入れて後ろから抱きしめた。
「ヒロさん……」
自分の首筋に顔を埋めるようにして抱きしめた小山内を、豊海はそっと呼んだ。
何か言いたいのかも知れないと思った。不安がっているのかも知れないと思った。
だが、豊海は言葉を掛けることが出来なかった。
口を開けば、桜音のことを話してしまうだろう。そして、きっとそれは、取り返しのつかない事態を招くことになるのだ。
ただ黙って抱きしめ、黙って顔を埋めたまま小山内は暫くそのままでいた。
だが、顔を上げると急に豊海の肩を掴み、向きを変えさせると激しくキスをした。
「んっ……」
一瞬息が出来なくなり、豊海は呻いた。
だが、小山内の腕を振り払いはしなかった。
「いっ……ッ」
いつもより、随分強引に小山内が身体の中に入ってきて、豊海は思わず声を上げた。
押し退けようとした腕をギュッと掴まれて眼を開けると、自分を見下ろす小山内の視線に出会った。
手首を掴んだまま、小山内は豊海の腕を床の上に押さえつけた。
怖くなって豊海が怯えた視線を投げると、小山内は眼を閉じて、更に深く腰を入れてきた。
「ぅくぅぅ…ッ」
圧迫感と幾らかの痛みで、豊海はまた呻いた。
だが、いつもなら豊海の様子を気に掛けてくれる小山内が、声を掛けてくれることもなく、行為を止めることもなかった。
「ヒロさんっ…」
思わず豊海が呼ぶと、小山内はやっと目を開けた。
「痛いの…?」
訊かなくても分かっている筈だったが、小山内はそう言った。
豊海が頷くと、その眼を小山内はじっと見た。
「我慢して?」
それは、いつものように優しい声だったが、見つめる眼に優しさは感じられなかった。
涙を浮かべて、それでも豊海が頷くと、小山内は辛そうな眼になって豊海の身体を抱きしめた。
「俺じゃ駄目?どうしても…?」
「ヒロさん………」
やはり小山内は分かっていたのだ。そう思って、豊海は切なかった。
何度も何度も首を振り、豊海は言った。
「駄目じゃないよ。駄目なんかじゃない…。俺が馬鹿なだけなんだよ…。ごめんなさい。ごめんなさい、ヒロさんッ……」
「豊海…」
名前を呼び、小山内は頬を擦り付けるようにして豊海を抱きしめた。
「俺、別れないよ?別れてなんかやらない。…豊海があいつを忘れるまで諦めないから」
「う…うう…」
我慢し切れずに豊海は嗚咽を漏らし始めた。
心から小山内を選べない自分が嫌で堪らなかった。小山内の気持ちが、切なくて堪らなかった。
そして、桜音を忘れられない自分が憎くさえ思えた。
泣きながら抱かれ、豊海が少しも快感を得られないまま行為は終わった。
疲れ切った豊海を風呂まで運び、小山内はいつものように一緒に入ろうとはせずに出て行った。
そして、豊海が風呂から出るとその姿は部屋から消えていた。
泊まっていく予定だったのだが、そんな気持ちにはなれなかったのだろう。
一人ぼっちの部屋を見回して、豊海はそっと溜め息をついた。
“別れない”と小山内は言ったが、きっともう棄てられるのだろうと豊海は思っていた。
そうなっても仕方が無い。愛想を尽かされない方がおかしいだろう。
小山内はもう会いに来てくれないに違いない。優しい恋人を、自分は永遠に失ったのだと豊海は思った。
濡れ髪のまま、布団も敷かず、豊海は炬燵の中に丸まって入るとぼんやりと考えていた。
「嫉妬してるなんて嘘だ……」
桜音の言葉を思い出し、豊海は呟いた。
「嘘つき…。抱いてくれなかったくせに…。恋人だなんて、一度だって思ってくれなかったくせに…ッ」
やっぱりまた、同情されたのだ。
熱に浮かされて縋りついた自分を見て、また哀れに思ったのだ。だから桜音は、あんなことを言ったのだ。
頭では完全に分かっていた。それなのに、身体はまるで何かに突き動かされるように動いていた。
立ち上がり、ブルゾンを取るとそれを羽織って部屋の鍵だけを持ち豊海は外に出た。
まだ濡れていた髪の毛がすぐに冷やりとして、ブルゾンのフードを被るとドアに鍵を掛けた。
雨はもう止んでいたが、地面は濡れていた。
その地面の上を小走りに豊海は進んで行った。
ポケットの中で鍵がガチャガチャいい、急いでいる所為と興奮の所為で口からは短く荒い息使いが聞こえた。
だが、今の豊海の耳にはどちらも聞こえていなかった。
桜音のマンションに着いて入り口を入ると、真っ直ぐにエレベータに向かい箱に乗り込んだ。
桜音の部屋の階に着き、まだ扉が開き切らない内に外へ飛び出すと、桜音の部屋へ向かった。
チャイムを押すと、すぐにインターフォンから返事が聞こえた。
暫くすると、驚いた顔の桜音がドアを開けた。
「豊海…ッ」
顔を見た途端、豊海は言葉を失った。
何を言いにきたのか、どうするつもりだったのか、何も考えていなかったことにやっと気付いたのだ。
口を開いて、何かを言おうとしたが何も出て来ない。焦って、豊海はギュッと拳を握った。
その時、桜音の脚の向こうに女物のパンプスが揃えて置いてあるのが見えた。
勿論、さっき来た時には玄関にそんな物は無かった。
サッと顔を上げ、豊海は桜音の顔を見つめた。
「やっぱり…、やっぱり嘘なんだ……」
「え…?」
「ちゃんと彼女が居るくせに、俺の事なんかなんとも思ってないくせに、なんで嘘つくの?もう同情してくれなくていいよ。俺、馬鹿だから、分かんないんだ。何回でも、信じたくて、……信じたくて、本当かも知れないなんて思っちゃうんだッ…」
叫ぶなり駆け出そうとした豊海の腕を、桜音が慌てて掴んだ。
「違うッ…」
両腕を掴んで自分の方を向かせると、桜音は言った。
「違うよ。あの靴は、彼女のじゃない。美穂ちゃんのだ」
「…え?」
「美穂ちゃんが来てるんだよ。お袋からの預かり物を持って、友達と会った帰りに寄ってくれたんだ」
「…そうなの…」
豊海は腹を立てたことが恥ずかしくなった。
例えあの靴が本当に桜音の彼女の物だったのだとしても、自分が腹を立てる理由など無い。桜音の恋人でもなんでも無いくせに、怒る権利など無いのだから。
「ご、ごめんなさい…、俺……」
桜音の手を自分の腕から外そうとしながら、豊海は謝った。
「か、帰る…。ごめん…、なに考えてたんだろ、俺…。どうかしてた」
だが、外そうとした手を、桜音がまた掴み直した。
「待って。話をしに来てくれたんだろ?美穂ちゃんも帰るところだったんだ。駅まで送ってくるから、部屋で待っててよ。な?」
桜音がそう言った所に、美穂がドアの影から顔を覗かせた。
「桜音君…?」
言い争うような声が聞こえたので驚いたのだろう。心配して出て来たらしかった。
「豊海さん、今晩は…。何かあったの?」
最後は心配そうに、美穂は桜音を見ながらそう言った。
桜音はすぐに首を振ると、安心させるように笑って見せた。
「いや、なんでもないよ。美穂ちゃん、帰るなら駅まで送るよ」
桜音が言うと、美穂は首を振った。
「いいわよ。まだ人通りもあるし、駅まではすぐだから…。それじゃ、豊海さん、またね?」
本当に帰るところだったらしく、美穂はもうコートを着てバッグを持っていた。
「あ。お、俺も帰ります」
そう言って豊海が手を振り解こうとすると、桜音は両手でその身体を抱き寄せた。
「は、離して…」
驚いて豊海が振り返ると、桜音は首を振った。
「帰るな。豊海は駄目だ」
2人の様子を見て、美穂は驚いた様子だったが何も言わなかった。
ぎこちない笑みを浮かべて片手を上げると、ひらひらと軽く指を動かして帰って行った。