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「……そう」
ポツリと、桜音はそう言った。
そして、テーブルに置いたカップを取ると黙って紅茶を飲んだ。
「…軽蔑してるの?」
俯いたままで豊海が訊くと、桜音が首を振るのが目の端に映った。
「まさか…。そんなことないよ」
それも嘘だと、豊海は思った。
桜音はきっと軽蔑したに違いない。そして、自分には心配する価値も無かったのだと気付いたのだろう。
「桜音は?…彼女が部屋に来ることもあるんでしょ?ここなら家族にも気兼ねしないで済むしね」
何とか心を落ち着かせて、豊海は訊いた。桜音の口から、はっきりと引導を渡してもらいたかったのだ。
だが、桜音の答えは予想していたものではなかった。
「彼女…?…ああ、あの時の娘とは結局付き合わなかったんだ」
「え…?」
やっと顔を上げて、豊海は桜音を見た。
「何度か食事したりしたんだけどね。…でも、やっぱりなんか違う気がして駄目だった。いい娘だったんだけど…。俺が悪いんだよ」
「美紅さんと比べると、ってこと…?」
豊海が訊くと、桜音は苦笑しながら首を振った。
「いや…。美紅のことは勿論まだ忘れられない。でも、彼女と比べてどうってことじゃないんだ。…美紅のことは思い出として考えられるようになった。でも、彼女は違ったんだ。そういう気持ちにはどうしてもなれなかった」
「そう……」
桜音の部屋に女の影がまるで無かったのも頷けた。彼はきっと、まだ誰も愛せないでいるのだろう。
美紅の存在は過去だと言っているが、きっとまだ忘れられないのだ。いや、忘れさせるような相手が現れないのだろう。
「よく……、彼にご飯作ってあげるの?」
訊かれて豊海は頷いた。
「たまに…。ヒロさんが作ってくれることもあるし、……デートして、外でご馳走してくれることもあるから…」
「そう…。俺にも良く作ってくれたよね?豊海が作ってくれるのは何でも美味しかったな」
思い出すように桜音はそう言って笑った。
ピクッと、また豊海の指が揺れた。
「肉団子……」
「え…?」
「桜音が美味しいって言ってた、店の肉団子のレシピ覚えたんだ…」
「へえ。あれ、旨いんだよね」
ギュッと、また震え出した指を豊海は握った。
「…作ってあげたかった。何度か練習して、上手に出来るようになったらって思ってたんだ…。でも、もっと早く作ればよかった…」
ホロホロと、堪え切れずに豊海の頬を涙が伝い落ちた。
なんで、こんな会話をしているのだろうか。何故今更、桜音は自分の心を揺らすようなことばかり言うのだろうか。
「豊海……」
泣いている豊海の肩を桜音の腕が包んだ。
その手を振り払うようにして、豊海は桜音の傍から離れた。
「また俺に同情してるの?あの時、俺が馬鹿なことを口走ったから、可哀想だと思って優しくしてくれてるんでしょ?」
「そうじゃない。俺は…ッ」
遮ろうとした桜音に首を振り、豊海は言葉を続けた。
「俺、本当は全然駄目だよ。ちっとも成長してないし、桜音のことも忘れられないしッ…。でも、でも、頑張ってるつもりなんだ。桜音はどうしたいの?俺のこと、どうしたいの?…たまに会ってくれるだけでいいって言ったのに。一緒にご飯食べるだけでもいいって言ったのに…、辛くなるから駄目だって、そう言ったのは桜音じゃないかッ。なのに、なんで俺を部屋に入れたりするの?」
言いたかった言葉を、豊海はとうとう全部吐き出していた。
何を言おうとしたのか、開きかけた口を桜音は一旦閉じた。だが、また口を開くと今度は済まなそうに言った。
「ごめん……。本当に、ごめんな…?」
唇を震わせたまま、豊海はただ黙って桜音の言葉を待った。
フッと息を吐くと、桜音は緩々と首を振った。
「あんな酷いことを言って別れてもらったのに、あれからずっと、俺は豊海のことばかり考えてた。…どうしてるんだろうって気になって、泣いてるんじゃないか、また食べれなくなってるんじゃないか…。そんなことばかり考えてた。そうだったとしても、全部俺の所為なのにな…」
苦い笑を浮かべると、桜音は一旦言葉を切った。
「だから、志田から豊海が風邪で熱を出したって聞いた時、何も迷わなかった。まるで当然みたいに、豊海の部屋へ行ってたんだ」
顔を上げると、桜音は豊海の瞳を見つめた。
「あの時の言葉……、まるで胸を抉られるようだった。俺は一体、何をしてしまったんだろうって…。後悔しても遅かったけど、自分がこんなにも愛されてたんだって、改めて分かったんだ…」
「桜音…」
「ごめん…、今更こんなこと言って…。豊海を惑わせるようなこと、言うべきじゃないって分かってるんだ。あの時、ヒロくんにもそう言われたよね…」
豊海は答えなかった。
確かに、あの時、小山内は桜音に対して腹を立てていた。中途半端なことをするなと、そうやってまた豊海を泣かせるのかと彼は言った。
それは勿論、小山内の優しさがさせたことだったろう。豊海を守りたいという気持ちが、彼にそんなことを言わせたのだろうと思う。
だが、嬉しいと思う半面で、放っておいて欲しいと感じたのも確かだった。
泣かされてもいい。
それでも本当は、桜音が傍にいてくれた方が嬉しいのだ。
「…また、友達になってくれるの?」
豊海の言葉に、桜音の顔が僅かに強張った。
「たまに会ってご飯食べたりとか?そうだね。志田も呼んで、みんなでご飯したり、楽しいよね、きっと。そういうのなら、いいの?…だって、それ以上は無理なんでしょ?…俺とは……」
遮ろうとして口を開いたが、桜音は言葉を発する前にまた口を閉じた。
「いつまでも引き摺っててごめんね…?俺さえ諦められたら、ちゃんと友達になれるんだよね。分かってるんだ……」
「違うッ…」
今度ははっきりと、桜音は首を振った。
「俺は豊海が好きなんだよ。凄く好きなんだ。それは嘘じゃない」
ギュッと、桜音の拳が握られるのが見えた。
「だって…、嫉妬してるのが分かるんだ」
顔を上げると、桜音はじっと豊海の顔を見た。
「俺は…、ヒロ君に嫉妬してるんだよ」
「嫉妬………?」
言葉の意味は勿論知っていた。
だが、桜音が言っている意味が豊海には分からなかった。
ぼんやりと、豊海は桜音の顔を眺めた。
「嫉妬?」
繰り返すと、桜音が頷いた。
何故、桜音が小山内に嫉妬するのだろうか。まさか、玩具を取られた子供のような気分でも感じているのだろうか。
多分そんなところなのだろうと、豊海は勝手に決め付けた。そうでなければ、意味が分からなかったからだ。
「好きって、言ってくれるんだ…。嬉しい……」
笑みを浮かべると、豊海は言葉を続けた。
「ありがとう、桜音…。俺も、桜音と同じ気持ちになれるように頑張るから…。いつか、友達として付き合えるようになりたい。そうなれるように…、俺…」
ギュッと手を掴まれて、豊海は言葉を途切れさせた。
「違うっ。そういう意味じゃないんだ。……俺は、嫌なんだよ。豊海が他の男とキスしたり、セックスしたりするのは…」
じっと、桜音に見つめられ、豊海はその目を見つめ返した。
「どうして…?そんなの変だよ…」
じんわりと、豊海の瞳に涙が溜まり始めた。瞬きをすれば、すぐに落ちてしまいそうだったが、豊海は瞬きをしなかった。
「なんで、桜音がそんなこと言うの?おかしいよ。そんなのおかしい…。だって、桜音は俺のことなんか……」
握られていた手を、豊海は振り解いた。
「俺はまだ変われないけど、でもヒロさんは優しくしてくれるんだ。髪だって洗ってくれる。…そりゃ、桜音の洗い方とは違うけど、桜音の指とは違うけど、でも、俺はヒロさんの指が好きだよ…ッ」
「豊海…ッ」
また伸びてきた桜音の手を振り払い、豊海は立ち上がった。
「もう、帰る。服は後で洗濯してドアに掛けとくから…。さよなら。ありがと…」
「豊海ッ…」
慌てて立ち上がった桜音を振り向こうともせず、豊海は小走りに玄関まで行くと、そこに置いてあった荷物を掴んで玄関から飛び出した。
もう雨は止んでいた。
豊海は殆ど駆け足で桜音のマンションから飛び出すと、そのまま早足で自分のアパートを目指した。
何故、今頃になって桜音は自分を惑わすようなことを言うのだろうか。
恋人としては好きになれないと、あの時はっきりと言ったではないか。
だから、別れたのだ。
別れたくなんかなかったのに、ずっと傍に居たかったのに、豊海は身を引いたのだ。
それなのに、何故今頃になって、まるで後悔しているようなことを言うのだろう。
(酷いよ…。酷い…、酷いよ…ッ)
毀れてくる涙を拭いながら、豊海はずんずん歩き続けた。
そうしなければ、戻って桜音の胸に飛び込んでしまいそうだった。
何故なら、傷つくのが分かっていても、本当はそうしたかったからだった。