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「離して…。話すことなんか無いよ。突然来たりしてごめん…。でも、もう帰るから」
豊海がまた腕を解き離そうとすると、桜音は益々力を込めた。
「駄目だ。帰さない…。ほら、上がって」
そう言うと、桜音は強引に豊海を玄関の中へ入れた。
パサッと豊海のフードが落ちて、濡れた髪が現れた。
それを見て、桜音の顔色が変わった。
「また、彼に髪を洗ってもらったの?」
玄関のドアを閉めながら桜音は言った。
豊海は僅かに俯いて桜音の視線から目を逸らしながら首を振った。
「違う……」
豊海が答えると、桜音がまたその手を掴んだ。
「おいで…。乾かしてあげる」
「い、いいよっ。離して……ッ。ホントにごめん…。来たのは間違いだった。ごめんなさい、俺、どうかしてたんだ」
「信じてくれようとしたんだろっ?」
ギュッと豊海の手首を掴んで桜音が言った。
ハッとして抵抗をやめると、豊海は桜音を見上げた。
「俺の言葉…、信じてくれようとしたんだろ?…なら、来て。髪を乾かしてからちゃんと話そう」
引き摺られるようにして玄関から上がると、豊海は連れられるままにバスルームへ入った。
桜音は豊海のブルゾンを脱がせると、ドライヤーのスイッチを入れて豊海の髪に風を当てた。
「自分でするから…」
豊海は言ったが、桜音は首を振った。
「いいから、俺にやらせて」
恋しかった桜音の指が、以前のように髪に触れた。
ふわふわと優しく髪を動かす指が、豊海には懐かしくて、そして切なかった。
「伸びてきたね…、髪。伸ばした方がいいよ、長い方が似合う。その方が好きだな…」
豊海の髪を乾かしながら、桜音が言った。
付き合い始めた頃も、短く切られた髪を弄りながら何度か同じ事を言ったのを豊海は覚えていた。
桜音が好きなのは自分の髪だけ…。
豊海がそう思っていた時期もあった。
だが、それは本当なのかも知れないと改めて思う。桜音から触ってくれるのは、いつも髪だけだったような気がするのだ。
「ほら、乾いたよ」
嬉しそうにそう言い、桜音はサラサラ毀れる豊海の髪を指から落とした。
「ありがとう…」
俯いたままで豊海が言うと、桜音はドライヤーを片付けて豊海を居間に行くように促した。
「いいよ。帰る……」
豊海が言うと、桜音はまた彼の手を掴んだ。
「駄目だ。折角来てくれたのに、帰さないよ」
桜音の言葉に豊海はやっと顔を上げると、涙の溜まった目で彼を見上げた。
「どうなるの…?」
「え?」
何を言っているのか分からず、桜音は聞き返した。
「信じたら、どうなるの?何かが変わるの?…それとも俺、また同じ思いをするの?」
「豊海……」
「同じことだよ。幾ら桜音を信じたって、桜音は俺を友達か弟にしか思えないんだろ?…だったらもう、それ以上は望まないから、俺に同情して優しくしないで。幾ら話したって、何も変わらない。最初から、俺と桜音の想いはまるで違うんだから…っ」
桜音の両手が豊海の肩を掴み、その目の中をじっと覗き込んだ。
「俺は勿論、責められても仕方ない。詰られても、怨まれても当然だと思う。自分がどんなに酷いことをしたか分かってるつもりだ。…けど、それでも離したくない……」
肩を掴んだ手にギュッと力を込められ、豊海は痛みを感じて顔を歪めた。
「嫌なんだよ。豊海が他の男とセックスするのも、キスするのも嫌なんだ…」
「桜音……」
痛いほど肩を掴んだまま、桜音は豊海の額に自分の額を押し付けた。
「頼む…。頼むから触らせるな。身体にも、髪にも、何処にも……」
豊海は戸惑っていた。
桜音の言葉は確かに嫉妬から出たようにも聞こえる。もしかすると、自分を見る目が桜音の中で変わったのだろうか。
「……俺…、ペットじゃないよ?」
恐々と、豊海は言った。
その言葉に、桜音は驚いたように目を見張って顔を上げた。
「桜音は俺を可愛がりたいの?傍に置いて甘えさせて、頭を撫でていたいの?…でも俺、そんなの無理だよ?…もう、それじゃ無理なんだ」
「俺は……」
そう言ったまま、桜音は言葉を失った。
“違う”と言って欲しかった。
“好きなのだ”と言って欲しかった。
だが、豊海の願いは叶わず、桜音は黙ってしまった。
力を無くした桜音の手を、豊海は自分の肩から外した。
衝動に駆られてここへ来た時、きっと自分は期待していたのだろうと思った。小山内に嫉妬していると言った桜音の気持ちが以前とは変わったのだと思いたかった。
だが、やはり奇跡は起きなかったのだ。
「帰るね…?突然来たりしてごめんなさい。もう、こんなことしないから…。お願いだから、忘れてください」
静かにそう言うと、豊海はバスルームを出た。
「待って」
それを追って出て来ると、桜音はまた豊海の肩を掴んだ。
「言えないよ…。好きだなんて言えない。自分自身にさえ空々しく聞こえるんだ…ッ」
苦しげに、まるで絞り出すような声で桜音は言った。
「今更、なんで言える…?なんで俺は、あの時気付かなかったんだ…。無くしちゃいけないって、なんで気付かなかったんだ……?」
泣きそうな目で桜音は豊海を見て言った。
その目を見た途端、豊海の方が涙を溢れさせていた。
そっと手を上げて、豊海は桜音の頬に触れた。
こんな桜音を見たくないと思った。少なくとも豊海は、自分の為に傷つく桜音を見たくなかった。
「傍に居るよ…。桜音が居て欲しい時に傍に居る。だから…、だから桜音は好きなように思ってくれればいい。友達でも、弟でもいいよ。もう、何でもいいんだ。…ペットでも、それでも俺はいいから…」
「違う……」
また搾り出すように言い、下を向くと桜音は何度も首を振った。
「違うっ、違う、違うッ……」
「違わないよ…」
震える声でそう言うと、豊海はゆっくりと桜音の胸に頬を寄せた。そして、恐々とその背中に腕を回した。
「ほら…、これでいいんでしょ?それで俺の髪を撫でたら、そしたら分かる。こんな関係が桜音は1番安心するんだよ」
見えなくても、桜音が激しく首を振るのが分かった。
だが、幾ら否定されても豊海には信じられなかったのだ。
「いいんだ。もう、それでいいんだ。最初から、俺さえ望まなければ良かったんだから…。悩む必要なんか、もうないんだよ」
泣きながらそう言うと、豊海はギュッと桜音のシャツを掴んだ。
「違う、違うって…」
桜音もまた、豊海を抱く腕に力を込めた。
「豊海のことをペットだなんて思ってない。俺が苦しいのは、豊海との想いに差があるからじゃない。同じじゃないって、なんであの時思えたのか、そして、なんで今頃になって気づいたのか、それが…そのことが悔やまれて、胸が抉られるみたいなんだよ…っ」
桜音の言葉は本当に彼が苦しんでいるのが分かるものだった。
掴んでいたシャツを離し、豊海は手を開くとゆっくりと桜音の背中を撫でた。
「同じじゃないよ。桜音は間違ってない。だから、いいんだ。後悔なんかしなくていいよ…」
顔を上げると、桜音は豊海を見た。
「…なんで?なんで同じじゃないって…?」
「だって、分かるから…。桜音は俺のことを好きなんじゃない。俺を傷つけたと思って後悔してるだけ。……俺が縋りついたから、怖くなったんだ。いつまでも俺が桜音を忘れられないことが、怖くなっただけだよ…」
ゆっくりと腕から力を抜き、桜音は豊海から離れた。
「抱けばいいのか……?そしたら、信じてくれるのか……?」
その言葉に、豊海の目に溜まっていた涙がほろっと落ちた。
「出来もしないこと言わないで…ッ」
震える声で豊海は言った。
「自分で何て言ったか忘れたの?…俺には欲望を感じないって、はっきり言ったじゃない。だから、恋人にはなれないんだって、言ったんじゃないかッ…」
悔しげにそう言って、豊海は泣いた。
だからこんなにも、辛い思いをし続けたのではないか。
身を裂かれる思いで、桜音と別れたのではないか。
ずっと傍に居て欲しいという想いを、断ち切られたのではないか。
悔しくて、情けなくて、豊海の涙は止まらなかった。
「自分がどんなに馬鹿か、最低の男か、俺が1番良く分かってるよ…」
切なげにそう言い、桜音はまた豊海の腕に手を伸ばした。
「許してもらえるとも思ってない…。俺の所為でどんなに豊海が傷ついたか…」
桜音の声は震えていた。
その彼の目を豊海はじっと見上げた。
「離れてから分かるなんて、何て馬鹿だったんだろうって…。こんなにも大切な存在だってことに、何故気付かなかったんだろうって…」
ギュッと桜音の手に力が篭った。
そしてそのまま、豊海の身体を腕に抱いたままで桜音の身体が崩れるように膝を突いた。
「失いたくないんだ。もう、失いたくないッ。今度こそ、絶対に傷つけないって誓う。大事にするから…、行かないでくれ…ッ」
手を交差させ、豊海は自分の腕を掴んでいる桜音の手を握った。

“失いたくない”

その言葉で、豊海にはやっと分かったような気がした。
「言ったろ?俺は大丈夫だよ。傍に居るから…。居なくなったりしない。いつでも会えるよ。桜音が必要とする時に、俺はいつでも傍に居る」
慰めるように、豊海は精一杯の笑みを浮かべて見せた。
「俺は違うから。美紅さんとは違う。居なくなったりしないよ。心配しないで…?」
「豊海……?」
桜音の目が、理解出来ない言葉を聞いたと言わんばかりに見開かれた。
美紅を永遠に失ったことが、桜音の中ではまだ忘れることが出来ない深い傷になっているのだと豊海は思ったのだ。
だから、例えそれが恋人ではなくても、永遠に失うのが怖いのだ。自分に対する桜音の感情はきっとそこから来ているのだろう。
「何言ってるんだ?美紅のことは関係ない。俺は…っ」
目を見開いたままで桜音は言った。
だが、その言葉には確信が持てずにいるような不安定な響きがあった。
「桜音…、桜音の気持ちは分かる。大丈夫、約束するから。俺は絶対に居なくなったりしないよ。桜音が望む時に、ちゃんと傍にいる」
「違うっ、違うんだ。美紅のことは関係ないッ。俺は、俺は…っ」
桜音が混乱しているのが豊海にははっきりと分かった。否定しながらも、自分でも自分を疑っているからだろう。
「桜音…ッ」
ギュッと、その身体を抱きしめて豊海は言った。
「もう、いいよ。悩まなくてもいい。俺は大丈夫、大丈夫だから…」
もう一度抱きしめて背中を叩くと、豊海は桜音を離して立ち上がった。
「また会おうね?ご飯、食べに来て?俺…、桜音の好きなもの作るから。あの肉団子も作るよ。ね?」
宥めるようにそう言った豊海を、桜音は黙って諦めたように見上げた。
だが、振り向きながら帰ろうとした豊海に、最後に静かに言った。
「ごめん…。傷つけてごめん…。ごめんな?豊海…」
笑みを浮かべて頷くと、豊海は部屋を出た。
立ち直ったように見えた桜音だったが、まだ完全ではなかったのかも知れない。そして、自分の下から誰かが去って行くのが耐えられなかったのだろう。
それが例え、自分から手放した相手だったとしても…。
そう思うと、豊海は酷く切なくなった。
やはり、恋人にはなれないのだと、そういう意味で愛されていたのではなかったのだと、それを知ったことよりも、桜音が苦しんでいることが辛かった。
豊海は本心から、自分が少しでも慰められるのならそうしてやりたいと思っていたのだ。 どんなに辛くても、桜音の為に笑っていようと思ったのだ。
歩きながら、豊海は何度も桜音のマンションの方を振り返った。
そして、携帯から桜音のアドレスを消してしまったことを少し後悔していた。