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熱の所為で、またすっと眠りに落ち、気付くと誰かが部屋の中に居た。
「志田…?来てくれたの…?」
相変わらず、豊海の声は皺枯れたままだった。
熱が上がって目も頭もぼうっとしていた。
台所に居たらしい人が近づいて来て、豊海の枕元に座ると額に手を当てた。
「また熱が上がったかな…?大丈夫か?」
訊かれて、豊海は顔を覗き込んで来た相手をじっと見た。
志田ではないと、すぐに分かった。
だが、熱の所為で幻を見ているのか、それともまだ夢の中なのかも知れないと思った。
「桜音……?」
呼びかけると、相手は笑みを見せて頷いた。
「久し振り…って、おかしいか、こんな時に…。志田がバイトのシフトを代わってもらえなかったからって、俺に電話してきたんだ。豊海が熱出して、一人で寝てるって…」
「嘘……。それで来てくれたの?だって、仕事は?」
妙に辻褄の合う夢だと思ったが、それでも豊海は心配になって訊いた。
「もう夜だよ。ずっと眠ってたから分からなかったろ?」
「そうなの…」
「何か食べられる?解熱剤と風邪薬も買ってきたから、食欲なくても少しは食べるといいんだけど。プリンは?好きだったろ?」
「…食べたい」
夢なら、少しは我侭を言ってもいいだろうと思った。豊海が答えると、桜音はすぐに頷いた。
「うん、待ってて?」
そう言って立ち上がると桜音はキッチンの方へ行き、だがすぐに戻って来た。
その手にはプリンのカップとスプーン、そしてペットボトルの飲み物があった。
「先に飲む?熱がある時は水分取らないとな」
「うん…」
ペットボトルを示されて豊海が頷くと、桜音は腕を差し伸べて豊海を抱き起こしてくれた。

まさか、夢じゃないのだろうか…。

その感触の確かさに、一瞬、豊海はそう思った。
だが、すぐにまたその思いを打ち消した。
現実の訳がない。桜音が今更、自分に会いに来てくれる訳などないのだ。
「はい」
キャップを開けたアイソトニック飲料を渡され、豊海は少しずつ液体を喉に入れた。
荒れた喉が沁みて、喉が渇いているのに一気に飲めなかったのだ。
だが、少しずつ半分ほどを飲むと、喉の渇きも漸く癒えた。
そう言えば、いつの間にか頭の下に氷枕が敷かれていた。これも、桜音が買って来てくれたのだろうか。
本当に、リアルな夢だと思った。
「はい、食べて」
プリンのカップとスプーンを渡されたが、ずっと食べていなかったのと熱の所為とで手が震え、豊海はカップのシールを剥がせなかった。
すると、すぐに桜音が手を出してカップを取り上げ、シールを剥がしてくれた。そして、スプーンを取って中身を掬うと、豊海の口元へ持って来た。
「はい…」
「い、いいよ…、自分で…」
躊躇う豊海に、桜音は優しく笑いかけた。
「いいから、あーん…」
また差し出されて、躊躇いがちに口を開くと、豊海はプリンを食べさせてもらった。
(ほら、やっぱり夢だ…)
プリンの甘さを味わいながら、豊海はそう思った。
夢でなかったら、桜音がこんなことをしてくれる筈がない。きっと、自分の願望が夢に出てきたのだと思った。
そう思うと情けなくて、豊海の目には涙が浮かんだ。
「豊海…?何処か痛いのか?」
泣き出した豊海を見て、桜音が心配そうに言った。
豊海は首を振ると、頬を伝う涙を拭った。
「桜音…、ありがと…。会えて嬉しい。嬉しい……ッ」
「豊海…」
「俺、駄目なんだ。頑張ったんだけど、全然駄目…。忘れようと思って…、桜音のこと、ちゃんと忘れて変わろうと思ったのに、やっぱり無理だよ…」
すっと、膝の上で握られた豊海の拳を桜音の手が包んだ。
その手の上に、ポタリと涙の雫が落ちた。
「傍に居てよ…。ずっと傍に居てよ……。お願いだから、行かないでよ…ッ」
「豊海……」
桜音の手が伸びて今度は豊海の身体を包んだ。
夢から覚めたくないと豊海は思った。
このまま覚めずにいられたら、ずっと桜音が傍に居てくれるのに…。
そう思って、豊海は桜音にしがみ付いた。



目が覚めると、まだ桜音が傍に居た。
驚いて目を見開き、目の前の胡坐を掻いたジーンズの膝から視線を上に動かすと、それは桜音ではなかった。
「なんで…?」
豊海の声に、小山内はハッとして読んでいた雑誌を横に置くと、両手を突いて豊海の方へ屈みこんだ。
「目、覚めた?熱、どうかな?測ってみようか」
手を豊海の額に当てながらそう言うと、小山内は傍から体温計を取って豊海に渡した。
「小山内さん、なんでここに…?」
「志田に聞いたんだよ。豊海君が熱出したの、俺の所為みたいなもんだからさ、看病しなきゃと思って」
済まなそうな顔でそう言うと、小山内はまた豊海の額に手を当てた。
「ホントにごめんな?豊海君が女の子に水掛けられたらしいって聞いて吃驚したよ。多分、俺が相手にしなかったもんで逆恨みしたんだろうけど…。ホントにごめん。風邪まで引かせちゃって…」
どうやら志田は、何があったのか感づいていたらしい。小山内の言葉に、豊海は首を振った。
「ううん。小山内さんの所為じゃないよ。気にしないで…」
「いや、そういう訳にはいかないよ。気にするなって言われても無理だ。熱が下がるまで、面倒見るからね」
「そんな…。だって、学校は?」
「大丈夫、午後から行けばいいから。授業受けたら、また来るし。あ、そうだ。玄関の鍵開けっ放しだったよ。無用心だなぁ…。でもまあ、そのお陰で入れたんだけど」
笑いながらそう言われ、豊海は苦笑した。
そう言えば、帰って来た時に鍵を掛けた覚えがなかった。
もしかすると、夢だと思った桜音の出現は現実だったのかも知れないと豊海は思った。そして、桜音と小山内を自分は間違えてしまったのかも知れないと思った。
「小山内さん、俺、変な寝言とか言わなかった?」
心配になって豊海はそう訊いた。
すると、小山内は笑いながら首を振った。
「別に何も言わなかったよ。良く眠ってたけど…?」
そう言われて豊海はホッとした。
熱はまだ8度2分あった。豊海は大丈夫だからと遠慮したが、小山内は午後の授業の後でまた来ると言って利かなかった。
お粥も作ってくれていて、まだ余り食欲はなかったが豊海は勧められるままにそれを食べた。
「美味しい…。小山内さん、料理上手なんだね」
「ははは…、お粥ぐらいで料理上手もないけどさ。まあ、俺も一人暮らしだし、結構自分で作って食べてるからな。口に合って良かったよ」
そう言った後で、小山内は少し顔を顰めるようにした。
「でも、豊海君、“小山内さん”って呼ぶの止めてよ。みんなと同じで“ヒロ”でいいし」
小山内の下の名前は尋久(ひろひさ)と言うのだが、呼び辛いので友達はみな、“ヒロ”と呼ぶらしかった。
考えてみれば、看病までしてもらってはいたが、会うのはまだ2度目なのだ。それなのに、馴れ馴れし過ぎないかと迷ったが、豊海は言われる通りにそう呼ぶことにした。
「でもヒロさん、俺の風邪は本当にヒロさんの所為じゃないから、気にしないで?熱ももう下がると思うし、本当に大丈夫だから」
豊海がそう言うと、小山内はじっと豊海を見た。
「豊海君、遠慮することないよ。合コンの時は志田が煩いからああ言ったけど、俺、最初から豊海君狙いだったんだ。今も下心たっぷりでここに来てる。…だから、悪いなんて思う必要ないよ」
「ヒロさん…」
豊海が驚いて見つめ返すと、伸びてきた小山内の手が髪を撫でた。
「最初に見た時から、マジで可愛いって思った。はっきり言って、これから来る女の子たちなんて、あの時点でどうでも良かったんだ」
「そんな…、俺…」
逸らした目をそのまま泳がせ、豊海は言葉を探した。
「豊海君の髪、手触りいいね。もっと伸ばせばいいのに…」
その言葉に、豊海はぎくりとして顔を上げた。
勿論、小山内は何も知らないのだが、偶然にも桜音と同じことを言った。そのことが、益々豊海を戸惑わせていた。
やはり、昨夜来てくれたのは桜音ではなく小山内だったのだろう。そして、桜音を欲する余り、自分は勘違いをしたのだと思った。
「…俺、ヒロさんが思ってるようなのと違うよ、きっと…」
「だって、俺がどう思ってるか分かってるの?」
笑いながらそう言われ、豊海は一瞬口篭った。
「でも…、きっと違う。ちゃんと知ったら、嫌になるから…」
豊海の言葉に、小山内はまた笑みを見せた。
そして、髪を撫でながら言った。
「なら、教えてよ、もっと…。豊海君のこと、もっと知りたい。でも、そしたらきっと、今よりも好きになると思う」
「でも……」
躊躇う豊海に、小山内は言った。
「俺じゃ駄目?」
「う、ううん…。そんなことないけど…」
「なら、俺のことももっと知って?それで嫌われたら仕方ないけどさ」
「ヒロさん…」
見上げると小山内はまた優しい笑みを見せた。
本当に自分のことを好きなのだろうか。豊海はまだ信じられなかった。
「俺と居ても楽しくないよ?話するの下手だし、友達も少なくて、話題もないし…。夜もバイトだから遊べないし…。いいことなんかないよ。ヒロさんだって、きっと嫌になるから…」
「俺だって?」
豊海の言葉尻を捉えて小山内は聞き返した。
「誰かに、そう言われた事あるの?一緒に居て嫌になるって?」
眉間に皺を寄せ、小山内は険しい顔になって訊いた。
「そうじゃないよ。そうは言われなかったけど…。でも、俺じゃ駄目だったから…。だから、さよならされたんだ」
口を挟まずに険しい顔のまま、小山内は豊海の話を聞いていた。
「俺…、弱虫だし、すぐに泣いたりして、男らしくないし…。だから同情してくれた。でも、同情だけじゃ、恋人にはなれないよね…」
「だから、合コンに来たの?…最初から豊海君はそういうタイプじゃないって思ったんだ。最初は人数合わせで引っ張り出されたのかとも思ったんだけど、もしかしたら、何か他に理由があるのかなって……。そいつのこと、忘れたかったの?」
小山内に言われて豊海は俯いた。
「だって……、忘れなきゃ、きっとまた迷惑かける…。俺、変わりたいんだ。違う自分になりたいんだ…」
「豊海君…」
小山内の腕が豊海の身体を包んだ。
「俺はそのままでいいよ。…変わる必要なんか無いよ」
「ヒロさん……」
「そのままでいい。だから、考えて?大事にするから…。ね?」
「……あ、ありがと…」
思わず、豊海は小山内の大きな胸にしがみ付いた。
本当にこのまま、小山内のことを好きになれたら、きっと幸せになれるのだろうと思った。
目を閉じて豊海が大きく息を吐いた時、ドアが開いて喋りながら志田が入って来た。
「豊海―、具合どうだ…って、おいこら、ヒロッ…」
小山内が豊海を抱きしめているのを見るなり、志田は彼を怒鳴りつけた。
「おまえっ、そういうの止せって言っただろ?離れろ、こらっ…」
「し、志田…、授業は?」
驚いたのと恥ずかしかったので豊海が目を逸らしながら言うと、志田はまだ小山内を睨みつけながら言った。
「午前中のが終わって、速攻で来た。取りあえず、ここで飯食ってまた行こうと思って…。豊海、それお粥か?まさか、ヒロが作ったのか?」
信じられないという口調で志田が言い、傍にあったお粥の入れ物と小山内を交互に見た。
「俺は純粋に看病に来たの。お前こそ、飯食いに来たなら帰れよ」
「あ、なんだよ。俺だってちゃんと見舞いに…」
言いながら、志田は持っていた袋から、苺のパックとアイソトニック飲料を数本取り出した。
「ほら、水分とビタミンC。風邪の時は大事だろ?」
「あ、ありがと…」
豊海が嬉しそうに笑うと、志田は頷いた。
「あ、そうだ。昨夜、桜音が来てくれなかったか?誰もシフト代わってくれなかったんで、電話したら行ってくれるって言ってたんだけど…」
「えっ…?」
志田の言葉を聞いて、豊海は目を見開いた。