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「じゃあ、じゃああれ、夢じゃなかったの…ッ?」
「うん…?」
乗り出して腕を掴んだ豊海に、志田は少し驚いたようだった。
「熱の所為でぼうっとしてたんだろ?会社が終わってから行くって言ってたから、きっと夢じゃないと思うぜ。何か話しなかったのか?」
「し…、したけど……」
そう言うなり黙り込んでしまった豊海を見て、小山内は少し険しい顔になった。
「桜音って?誰?」
訊くと、志田は袋から自分用に買ってきた弁当を取り出しながら答えた。
「ああ、俺らと一緒にバイトしてたヤツ、って言ってもちょっと年上だけどさ。気さくな人だから俺らともタメ感覚で付き合ってんだ。バイトが一緒の時、豊海のトコに3ヶ月くらい居候してたんだよ。な?」
黙って頷いた豊海を小山内はじっと見つめた。
「でもやっぱ、ちゃんと来てくれたんだな。もしかすると、今日も仕事終わったら来てくれるつもりなんじゃないかな。心配そうだったし…」
「え…?」
驚いて豊海が顔を上げると、小山内の視線を感じた。
「で、でももう、きっと来ないよ…。俺、もう大丈夫って言ったと思うし…」
豊海が答えると、志田は弁当に箸を入れながら頷いた。
「そうか?まあ、今夜は俺も遅番だから来れるし、大丈夫だけどな」

あれが夢じゃなかった。

豊海は背筋が震えるような想いに囚われていた。
夢だと思って、見っとも無く縋り付いた。泣いて、無理なことを言って、また桜音を困らせた。
(折角、来てくれたのに…)
きっと、益々嫌われたに違いなかった。
志田も小山内も居るのに、豊海はもう2人のことを考える余裕を無くしていた。もう、桜音のことしか考えられない。
そして、強い人間に変われた自分を見せられなかったことを、後悔するばかりだった。
「ほら、豊海君、薬飲んで。そして、少し眠った方がいいよ」
小山内が優しく声を掛けて、そして薬と水のペットボトルを渡してくれた。
「あ、ありがとう…」
頷いて渡された薬を飲み、豊海は横になった。
氷枕に頬をつけて目を瞑ったが、とても眠れそうに無かった。
(もう、きっと来てくれない…)
もう一度そう思うと、豊海は泣きたい気持ちで両手をギュッと握り締めた。



フッと目が覚めて、豊海は誰かの気配を感じた。
良くは分からなかったが、多分もう夜だろう。眠れないと思ったが、薬の所為かトロトロと眠ったらしかった。
(ヒロさん、また来てくれたんだ……)
午後の授業が終わったらまた来ると言ってくれたので、きっと小山内だろうと思った。
布団の中から見回したが姿は見えない。だが、台所の方で話し声が聞こえた。
(誰…?)
テレビを見たが画面は暗い。どうやら、小山内が誰かと話しているらしいと知り、豊海は重い体を起こして玄関の方に身を乗り出した。
小山内の後姿が台所の向こうの玄関のドアの前に見えた。起きたばかりで少しぼやけている目を向けると、半分ほど開いたドアの向こうに誰かが立っていた。
(誰だろう…?)
小山内がその誰かに向かって、少しきつい調子で話しているのに気付き、豊海は眉を顰めた。
「どういうつもりで来たのか知りませんけど、豊海君の看病なら俺がしますから、ご心配なく。どうか、お帰り下さい」
「熱は下がったんですか?昨夜は随分高かったけど…」
心配そうな声がそう言うのが聞こえた。
その声を聞いて、豊海はハッとした。
(桜音…ッ)
また少し身を起こし、豊海はドアのところに立っている人物に目を凝らした。
それは、間違いなく桜音だった。
(来てくれたんだ…。心配して、また来てくれたんだ…)
嬉しくて、涙が滲んだ。
あんな馬鹿なことを言った自分を、まだ気遣ってくれていたのだ。
「もう大分下がりました。今夜は俺が泊まるんで、ホントに大丈夫ですから」
また、きつい声で小山内が言った。
桜音は躊躇っているようだったが、何かを此方に差し出した。
「じゃあこれを…。抹茶のアイスクリーム…。豊海の好物なんで食べさせてやって下さい」
だが、小山内はそれを押し戻した。
「いいえ。貴方が来たことは豊海君に言うつもりはありません」
(ヒ、ヒロさん……ッ)
小山内の言葉に、豊海は驚いた。
だが、豊海が起きているのを知らない小山内は言葉を続けた。
「あなた、どういうつもりです?豊海君が、どんなに傷ついてるか分からないんですか?一生懸命、あなたを忘れようとして健気に頑張ってる。自分を変えたいって、違う自分になりたいって、そう言ったんですよ?自分が駄目だから”さよなら”されたんだって……。あなたのことは全然悪く言わなかった。傷つけられたのに、一言も悪く言わなかった。それなのに、今更現れて、中途半端にまた優しくして…。豊海君をまた泣かせたいんですか?」
小山内の言葉を聞きながら、豊海は涙を流した。
一生懸命自分のことを心配して、小山内は桜音を責めている。その気持ちは嬉しかった。だが、桜音を責めて欲しくは無かったのだ。
「分かりました…。俺が浅はかでした。豊海のこと、宜しくお願いします」
桜音の沈んだ声がして、その後でドアが閉まるのが分かった。
その途端、豊海は起きて立ち上がった。
「待ってッ…」
「と、豊海君っ…」
起き出してきた豊海を見て、小山内が驚いて近づいて来た。
その手を振り払うようにして豊海は玄関に下りると、裸足のままでドアを開けた。
「桜音ッ、桜音ッ……」
「と、豊海…」
豊海の叫び声に、桜音が驚いて振り返った。
そして、慌てて戻って来ると、ふらつく豊海の身体を抱きかかえた。
「桜音、ごめんっ…、違うよ。俺…、俺ッ……」
「だ、駄目だよ、こんな格好でッ。熱があるのに…」
驚いて慌てる桜音に首を振り、豊海は必死で言った。
「桜音は悪くない。俺…ッ、俺が…、ごめんね?昨夜、へんなこと言ってごめんなさい。ごめんね?」
「豊海ッ…」
感極まったように名前を呼び、桜音はパジャマ姿の豊海を抱き上げた。
「兎に角中へ…」
ドアを押さえたまま固まっていた小山内に目をやり、一瞬頭を下げると、桜音は豊海を抱いたまま部屋の中へ入った。
「歩けるよっ」
降りようとした豊海を更にしっかりと抱きかかえると、桜音は首を振った。
「いいから…」
(桜音……)
体温を感じて鼓動が早まった。
そして、すぐ目の前にある桜音の顔を見ると、豊海はまた泣きそうになった。
馬鹿なことばかりしている自分に、何処までも優しくしてくれる桜音。だが、これもきっと同情なのだろうと思った。
「桜音…、昨夜は俺、熱の所為でおかしくなってたんだ。だから変なこと言ったけど、でも、違うから…。もう俺、ちゃんと忘れて…。友達も出来たし、大丈夫だよ、大丈夫だからホントに…」
布団の上に下ろされると、豊海は必死でそう言った。
「俺、困らせるつもりなんか無かったんだ。ただ、昨夜は、熱の所為で心細かったから…。ごめんね?ホントにもう大丈夫なんだ。変に思わないで?」

嫌いにならないで。

そう言いそうになって、豊海は言葉を飲み込んだ。
「いいから…、そんなに謝らなくていい。変になんか思ってないよ。大丈夫…。足、拭こうな?」
桜音に言われて豊海がフッと顔を上げると、小山内が辛そうな顔で其処に立っていた。
「ごめん…。いいかな?」
立ち上がった桜音にそう言われ、小山内は黙って頷いた。
桜音はバスルームに行くと洗面器にお湯を入れて戻って来た。
その中に豊海の冷え切った足を入れ、汚れを洗い流した。
「ごめんなさい…。また、迷惑掛けて…」
「迷惑だなんて思ってないよ」
豊海の言葉に桜音は笑って答えると、豊海の足を綺麗に洗い、タオルで拭いた。
「アイス、冷凍室に入れておくよ」
桜音が其処に置いたままにしてあった袋を拾い上げると、小山内がそう言った。
「あ、ありがとう…」
豊海が答えると、小山内は黙って頷いた。
「冷えちゃったんじゃないか?また熱が上がらないといいけど…」
そう言って額に触ろうとした桜音の手を、豊海は首を振って避けた。
小山内の視線が痛かった。
変わりたいと言った傍から、もう桜音に甘えようとしている自分を見られたくなかった。
「大丈夫。もう平気。あの…、来てくれてありがとう。でも、もう熱も下がったし、心配ないから。ヒロさんも居てくれるし、もう大丈夫だから…」
小山内のことを振り返って豊海がそう言うと、桜音は一瞬、強張った表情になった。
だが、すぐに笑みを浮かべると言った。
「そうか…。そうだな。じゃあ、俺はこれで帰るよ」
「う、うん…。引き留めてごめんなさい。ホントに、ホントにありがとう。…嬉しかった」
豊海の言葉に桜音は笑みを浮かべて頷くと、躊躇いがちに彼の髪を撫でた。
その途端、豊海の目に涙が滲みそうになった。自分の髪を撫でる、桜音の指の感触が切なくて堪らなかった。
懐かしくて、愛しくて、恋しくて、堪らなかった。
だが、豊海は泣かなかった。泣いたら、また桜音が困る。
自分はもう大丈夫だと言ったのに、それが嘘になる。それでは駄目なのだ。
帰って行く桜音の後姿を、豊海は見なかった。
その代わりに、小山内が彼を玄関まで送ってくれた。
桜音が行ってしまって、戻って来ると、小山内は豊海の布団の脇に座った。
「ごめんね…?俺、余計なことして……」
桜音を追い返そうとしたことを、小山内は豊海に謝った。
だが、豊海は首を振った。
「ううん…。心配してくれてありがとう。俺こそ、ごめんなさい…。嫌な思いさせて…」
「豊海君…。本当はまだ、好きなんだろ?あいつのこと……」
口篭った小山内に、豊海は首を振った。
「違う…。そんなんじゃない……」
俯いた豊海の髪を、今度は小山内の手が撫でた。
優しさは変わらない。それなのに、何が違うのだろうか。
「お腹空かない?何か食べる?そうだ、志田が持って来た苺があるよ」
言われて、豊海は顔を上げた。
「うん…。食べたい」
精一杯笑みを見せて豊海が言うと、小山内も笑みを見せて頷いた。
(優しい人だな……)
立ち上がった小山内の後姿を見て、豊海はそう思った。
桜音の手前、出汁に使ってしまった形になったのに、怒りもせずに親切にしてくれる。本当に優しい人だと思った。
小山内は自分のことを好きだと言ってくれた。付き合おうとも言ってくれた。
だが、今日の自分を見てやはり嫌になったのではないだろうか、と豊海は思った。
(きっと、呆れたよな……)
小山内は苺を洗って(へた)を取り、器に入れて持って来てくれた。礼を言って受け取ると、豊海はフォークで真っ赤な苺を刺した。
小山内は傍に座って豊海が苺を口に入れるのを見ていた。
「美味しい。凄く甘い…」
豊海が言うと、小山内は嬉しそうに笑った。
「ご飯は?食べられるなら何か作ろうか?もう、お粥は嫌だろ?」
「ううん…。俺はいいよ。それより、ヒロさんは?ご飯食べたの?もう俺、大丈夫だし、家に帰ってくれても…」
「今夜は泊まる」
遮るようにそう言われ、豊海は黙った。
「そのつもりで、ちゃんと準備してきたし。豊海君さえいいなら、泊まるよ」
見ると、部屋の隅に小山内のものらしい見慣れない鞄があった。
「うん…、ありがとう…」
それを見て豊海が頷くと、小山内はホッとした様な顔になった。
「やっぱり、何か作るよ。スープとかなら食べられるだろ?一緒に食べよう」
言われて、豊海はまた頷いた。
「うん…」
立ち上がりかけた小山内が、思い直したようにまた豊海の前に座った。
そして、顔を上げた豊海の唇に躊躇いながらキスをした。
「ヒロさん……」
驚いて豊海が少し身を引くと、小山内はじっと豊海の眼を見つめた。
「ごめん…。でも俺、やっぱり前より好きだよ。前よりずっと、好きになった」
「俺……」
何と答えていいのか分からず豊海が口篭ると、小山内はフッと笑って立ち上がった。
「スープ作るよ。待ってて?」