手紙


-3-

その日は真っ直ぐ帰らず、放課後も図書館で勉強し、歩は壮士の補習が終わるのを待った。
昼休みに理沙と一緒の壮士を見てから、何故か歩は焦っていた。塾に行く前に、少しでもいいから話がしたかったのだ。
自分が、もっと上のランクの高校を受験するつもりだという事も知ってもらいたかった。
少しでいいから、壮士に興味を示してもらいたかったのだ。
昇降口で待っていると、間も無く補習を終えた生徒たちがぞろぞろと現れた。
その中に理沙と一緒に出て来た壮士を見つけて、歩は近付いた。
「壮士……」
「歩…。おまえ、待ってたのか……?」
眉根に皺を寄せて、壮士が言った。
その、迷惑そうな顔付きに、歩は少し怯んだ。
だが、懸命に気持ちを奮い立たせ、歩は壮士の顔を見上げた。
「う、うんと…、図書館で勉強してたんだ。調べたい事とか有って…」
「へえ?おまえも少しはやる気になったんだ」
壮士の表情が和らいだのを見て、歩は思い切って言ってみることにした。
「あのさ、今度の土曜日は?忙しい?」
「ああ……」
ちらっと、理沙の方を見て壮士は頷いた。
「悪いけど、園田が勉強しに来るんだ」
「あ、じゃあさ、俺も行っちゃ駄目?」
「え……?」
 壮士と理沙は顔を見合わせた。
「あの、俺も勉強したいんだ。壮士、あの、俺ね……」
言いかけた歩の言葉を遮って理沙が口を出した。
「悪いけど、沢口くん…、レベルの違う人と勉強しても、あたし達のメリットにはならないから……」
「え?」
なんだって?
レベルが違う……?
言われた途端、カーッと頭に血が上った。
そして、歩は自分を見失ってしまった。
「煩いっ…」
叫ぶと同時に、歩はドンッと理沙の身体を突いた。
「きゃっ……」
「歩っ…」
驚く壮士を尻目に、歩は理沙に詰め寄った。
「あんたになんか、訊いてないだろっ。口出すなよっ…」
興奮した歩は自分でも気付かない内に理沙の長い髪を掴んでいた。
この女が憎い。
憎い、憎い、憎い……。
どうして、壮士は自分よりもこの女を大事にするのだ。
10年近くも、自分はいつも壮士と一緒だったのに。
おまえなんか、つい最近、壮士の前に現れたくせに。
「偉そうにっ、なんだよっ…。この……っ」
「歩、止めろ、離すんだ。歩っ…」

バシンッ。

突然頬に衝撃を受け、歩は目を見開いた。
痛い……。
掴んでいた理沙の髪を離し、歩は自分の頬に手を当てた。
何で痛いんだろう……。
ジンジンと熱い頬を押さえ、歩はポカンとして壮士を見上げた。
「ぶったの……?俺のこと……」
「仕方ねえだろ?おまえが園田の髪を離さねえから……」

打たれた……。
壮士に打たれた……。
この女を守る為に、壮士は自分を打ったのだ。

じわっと、鼻の奥が熱くなる。
歩は泣き出すと同時に、2人に背を向けて走り出していた。
壮士が、自分を打った。
園田理沙を守る為に、自分を。
親友だった筈の自分を。
一番大事な壮士が、なんの躊躇いも無く、園田理沙を選んだのだ。
自分ではなく。
悔しくて、そして悲し過ぎて、歩の胸は今にも張り裂けそうだった。
逃げ帰るようにして自分の家まで行くと、歩はすぐに部屋に篭った。
「うっ…うぅッ」
後から後から、涙が溢れてくる。
ベッドの上に突っ伏して、歩は泣き続けた。



もしかして、壮士が電話をくれるのではないかと思っていた。
でなければ、メールくらいはくれるのではないかと期待していた。
“ごめん”と、打った事を謝ってくれるのではないかと、そう思っていた。
だが、そんな歩の期待はすべて裏切られてしまった。
壮士はその夜、とうとう何も言ってはこなかった。
「もう、俺なんかどうでもいいの?」
大事なのは理沙だけで、自分の事はほんの少しも考えてはくれないのだろうか。そんなちっぽけな存在に、自分はなってしまったのだろうか。
部屋に篭って歩は壮士の事ばかりを考えていた。
歩にとっては今でも壮士は1番大切な存在だった。
その壮士に、もう相手にもされなくなってしまった自分が、嫌で堪らない。
どうしてもっと前から、ちゃんと出来なかったのだろう。こんなにも嫌われる前に、もっと努力しなかったのだろう。
明日から、どんな顔をして壮士に会えばいいのだろうか。
そんな事ばかり考えていると、佳実が部屋に顔を出した。
「アユ、どうした?飯も食わないで…」
佳実に顔も見せず、歩は布団を被ってベッドに突っ伏していた。
「アユ、何かあったのか?」
「ほっといて……」
「そうはいかないんだ。下に下りて来いよ」
「嫌だ…」
「緊急事態なんだ。いま、家族会議だ」
「え……?」
やっと布団から顔を覗かせた歩を見て佳実は眉を顰めた。
「どうしたんだ?これ……」
薄っすらと指の痕の残る弟の頬に手をやり佳実が言うと、歩はふっと顔を背けるようにして兄の手を外した。
「なんでもない……」
何でもない筈はなかった。 歩の目は明らかに泣き腫らして見える。
「誰かに苛められたのか?」
佳実が心配そうに訊いたが、歩は首を振った。
「違う。ほんとに何でもないから」
頑なにそう言う弟に眉間に皺を寄せ、佳実は歩の頬を見つめながら言った。
「父さんが、また転勤だって、しかも急に来月……」
「え?うそ……」
だが、嘘ではなかった。
人員の補給とかで急に父が転勤する事になってしまったのだ。
居間へ入ると、家族全員が顔を揃えていた。
「単身赴任なんて無理よ。お父さん、1人じゃ何にも出来ないし……」
母はもう、父と一緒に行くと決めているようだった。
「じゃあ、俺は?もうすぐ受験なんだぜ。環境が変わるのは困るよ」
佳実が言うと、母はあっさりと肩を竦めた。
「あなたと孝ちゃんはこっちに残りなさいよ。学校のことも有るし、大きいんだから2人で協力して生活したらいいわ」
「じゃあ、アユだけ連れて行くつもり?」
孝実が言うと母は当然というように頷いた。
「だって、心配だもの。アユちゃんは置いていけないわよ。ねえ、お父さん」
「そうだなぁ、運良く受験前だし、あっちで、受けるつもりだった高校と同じレベルのとこを受験すれば大丈夫だろ」
「アユ、いいのか?それで」
いつもなら、煩いほどにギャアギャア言う筈の歩が、まるで口を出さないことを不審がり、孝実が訊いた。
すると、歩は驚くほどあっさりと頷いた。
「うん、いいよ」
もう、どうでも良かった。
どうせ、もう壮士は自分を許してくれないのだろう。
それならば、ここを離れて他の土地に行くことに何の躊躇いもない。
「じゃあ、決まりね」
「あの…、母さん、」
話を終わろうとした母に、歩は急いで言った。
「壮士の家には俺が一緒に行くって言わないでね」
「あら、どうして?」
「うんと…、壮士には自分の口から言いたいし、他の人から知られるの嫌だし……」
「そうねえ…、壮ちゃんには随分仲良くしてもらったもんねぇ…。分かったわ、アユちゃんが、ちゃんと自分で言いなさい」
「うん……」
返事はしたが、歩は引っ越す事を壮士に言うつもりは無かった。
もう、顔を合わせることなど出来ない。
自分はもう、完全に壮士に嫌われてしまったのだ。
部屋に戻ると、追う様にして佳実が入って来た。
「アユ、おまえ、ホントになんか有ったんじゃないのか?もしかして、壮士と喧嘩したとか……?」
歩のさっきの態度にも不審を覚えたのだろう。兄として、佳実は末っ子を心配しているのだ。
「違うよ。そんなんじゃない。ホントに違う。壮士は関係ないよ」
「じゃあ、誰に打たれたんだ?」
「打たれたんじゃない。ただ、転んでちょっとぶつけただけ」
納得していないようだったが、佳実は渋々頷いた。
「分かった。言いたくないならしょうがないけど。けど、何か困ったことがあったら、ちゃんと言うんだぞ?いいな?」
「うん。ありがとう、佳兄」
無理して笑って見せると、佳実はもう1度頷いて、部屋を出て行った。



引っ越しの日が来るまでの間、歩が心配するまでも無く、壮士と顔を合わせることは殆ど無かった。
見かけても、廊下を友達と話しながら通る所とか、体育の授業でグランドに出て行く姿とかを遠くから見るだけだった。
とうとう、壮士の方から歩に近寄って来てくれることもなく、打った事への謝罪をしてくれることも無かった。
廊下を通る壮士の姿を教室の中から見つけ、歩はドアの所に近寄ってその後ろ姿を見つめた。
(壮士、もうすぐ俺、居なくなるんだ。そしたら、少しは寂しいって思ってくれる?)
歩は担任の先生に頼んで、転校する事をクラスの友達にも当日まで言わないでもらう事にした。
「みんな受験で忙しいし、気を遣わせたくないから……」
「そうか。でも、本当にいいのか、それで…」
「仲良くしてもらった友達には自分から言います」
「そうか。でも、元気な沢口が居なくなると寂しくなるなぁ。卒業まで一緒に過ごせると思っていたんだが……」
だが、歩は転校する事を前もって誰かに話そうとは思わなかった。
本当は、誰にも知られず、ひっそりと消えてしまいたい。
勿論、それは無理だったが、それでも転校する事をギリギリまで秘密にしておきたかった。