手紙
-6-
「アユちゃん、今日も行くの?」
台所に入って来た母が、少々険しい顔をして言った。
「うん。決めたことだから」
「だって、昨夜だって遅くまで勉強してたんでしょう?無理よ、こんなに早くから…」
「大丈夫だよ」
自分で握った不恰好なお握りに海苔を巻こうとすると、母が横からそれを取り上げた。
「もうっ。だったら、お弁当くらいお母さんが作ってあげます。ほら、どいて…」
「ありがと」
歩は手を洗うと、水筒に冷蔵庫から出したスポーツドリンクを移し変えた。
「朝練なんて、他の子もやってるの?」
「ううん、自主トレだもん。他の奴はいいんだよ。みんな、中学からやってて上手いもん。初心者なのは俺だけ……」
それを聞いて母は溜息をついた。
「どうして、そこまでやるの?別に選手になれなくたって、楽しく出来ればいいでしょう?」
「だって、上手くなりたいもん」
「アユちゃん…」
去年までは甘ったれだった末っ子が、どうしてこんなに変わったのか母は不思議だった。
幾ら言っても、勉強なんて碌にせず、入る高校のレベルなんて気にしたことも無かった。
家に居る時も、いつでも誰かの手を煩わせてばかりいたのに、今ではこうして朝食の弁当まで自分で作ろうとする。
そして、身体を壊すのではないかとハラハラするほど、夜遅くまで勉強するのを止めなかった。
何がこうまで彼を変えたのか、母には見当も付かなかったのだ。
歩が部室に行くと、堀尾がベンチに座っていた。
「あれ、ホリ。どうしたの?」
「おまえ、水臭いよ。朝練やってんなら、声掛けろよな」
「えー、だって、ホリは上手いじゃん。やる必要ないよ」
「だっておまえ、一人でやっても詰まんないだろ?練習も限られるしさ」
「え?じゃあ、俺に付き合ってくれるつもりで?」
歩が驚くと、堀尾はニカニカと笑いながら見下ろした。
「基礎テクくらいなら教えてやるって。どうせ暇だしよ」
「ホリ…。あ、ありがと……」
堀尾は初心者で身体が小さい歩が他の新入部員に馬鹿にされがちなのをいつも庇ってくれる。でもまさか、早朝の自主トレにまで付き合ってくれるとは思わなかった。
「ほんと、アユって熱心だよな」
「だって、下手っぴなんだもん。人より、いっぱいやんなきゃさ…」
「いや、練習だけじゃねえよ。他のこともさ…。先輩達も感心してたぜ。部室も、おまえがいつも掃除してくれてんだろ?」
「うん。朝、使うついでだから」
「偉いよなぁ」
感心されると恥ずかしくなって、歩は少し頬を赤くした。
体育館に行って練習が始まると、やはり堀尾は凄いと歩は思った。
身体の切れ、スピード、テクニック、何をとっても、とても歩が敵う相手ではない。
おまけに、前に立たれるとまるでそそり立つ壁のようだった。
「はぁー…。やっぱ、チビって不利だよなぁ……」
休憩の時、思わず呟いてしまった歩を見て堀尾は笑った。
「まぁな。でも、小さくても凄い選手も居るぜ。機敏に動き回れば十分戦力になるし…」
「そっかなぁ…?頑張れば、NBAに入れる?」
「あっはは…。入れる、入れる」
笑い合った後で、堀尾は少し真面目な顔になった。
「けどアユ、おまえ、なんでバスケ部に入ったの?最初の時、背を伸ばしたいからじゃ無いって言ってたけど。急に、バスケに興味が湧いたんか?」
一瞬躊躇った後、歩は笑いながら言った。
「うん。テレビでさ、バスケの試合見て、カッコいいなって思ったから。単純だけど、それだけなんだ」
「そうかー。でも、理由なんてどうでもいいよな。自分が楽しんでやれればさー」
「うん。入って良かったよ、バスケ部。ホリとも仲良くなれたし」
歩がそう言って笑いかけると、何故か堀尾は目を逸らした。
「はは…。じゃ、休憩終わりにすっかー。もうちょっと、頑張るべえ」
「うん」
なんだか堀尾の様子がおかしいと思ったが、歩は彼に釣られて立ち上がった。
壮士へ
元気ですか? 俺、バスケ部に仲のいい友達が出来たよ。
堀尾って言って、同じクラスなんだけど、俺なんかと違って凄くバスケが上手いの。
毎朝ね、堀尾と一緒に自主トレしてるんだ。
お陰で、俺も少しは上達したよ。
まあ、そう言ってもレベルは知れてるけど……。
堀尾は少し、壮士に似ています。
背が高いとこと、面倒見がいいとこ……。
でも、壮士みたいに頭は良くない。勉強は苦手みたいなんだ。
顔も、壮士の方がずっと男前だしね。
でも、凄くいい奴だよ。
堀尾と居ると、壮士のことを思い出します。
ううん。
本当は、いつでも壮士のことを考えています。おかしいぐらい……。
怒った?
考えるのも、駄目かなぁ……?
それぐらいは、許してくれるよね?
そう、信じたいです。
歩
壮士から手紙が来る訳は無いと知っていたが、それでも歩は毎日、学校から帰って来ると真っ先に郵便受けを覗いた。
それはもう、習慣になり、マンションの玄関を入ると自然に手が郵便受けに伸びてしまうようになった。
だが、そこに、待っている手紙が入っていることは無かった。
毎日、それこそ憑かれた様に、歩は勉強した。
それは勿論、壮士に追い着きたいという一心だったが、実はその他にも一つ理由があった。
歩は理沙に言われた、”レベルが違う”という言葉をずっと気にしていたのだ。
それは、歩にとって全てを否定されたように感じた言葉だった。
勉強のことだけではなく、人間として、自分や壮士とはレベルが違うのだと言われたような気がして、ずっと頭の隅から消えなかった。
小さい頃は、いつも隣にいた壮士。
今では、ずっと遥か先の手の届かない所に、理沙と手を繋いでいる。
走っても、走っても、歩は少しも追い着けない。
そんな夢を、幾度と無く見ては魘されるのだった。
夢の中でさえ、壮士は自分を振り向いてはくれなかった。
振り向いて欲しい。
もっと頑張って、認めてくれるようになったら夢の中の壮士は振り向いてくれるかも知れない。
現実では無理でも、せめて夢の中でくらい昔の2人に戻りたかった。
「歩?まだ寝ないの?」
心配して覗きに来た母を振り向きもせず、歩は頷いた。
「うん、もうちょっと。もうすぐ、中間だし」
「そう?でも、いい加減にして寝なさいよ。毎朝、早起きしてるんだから」
「うん、分かった」
もう、午前1時を回った。
毎朝6時に起きて朝練に行く歩の睡眠時間は毎日4時間程度だった。
それでも歩は、勉強も朝練も絶対に止めるつもりは無かった。
フーッと溜め息をついた歩を見て、堀尾は掻き込んでいた弁当の箸を止めた。
「どした?食欲ないのか?」
「んー、なんかあんまり。ホリ、俺のも食べていいよ」
いつも自分の弁当だけでは足りず、後でパンを買って食べる堀尾に、歩は殆ど手をつけていない自分の弁当を差し出した。
「えー?嬉しいけど、後で腹減るぞ?ちゃんと食った方がいいよ」
「うん。でも、ホントに食べたくないんだ」
答えた歩を見て、堀尾は眉を寄せた。
「どっか、具合悪いんじゃねえ?この頃、あんまり顔色が良くねえよ」
「そう?別に具合は悪くないけどな」
「なあ、アユ。おまえ、無理し過ぎじゃねえ?おまえって……華奢だしさ、体力だってそんなにあるとは思えねえし。部活の練習量だって結構あるのに、朝練までやって疲れてんじゃないのか?」
多分“小さい”と言おうとしたのだろうが、堀尾は歩を気遣って言葉を選んだ。
歩はそれに気付いて、少し笑った。
「ありがと、心配してくれて。でも、大丈夫だよ。俺、チビだけど、昔から体力だけには自信があるんだ」
堀尾が避けた言葉を、歩はわざと使ってそう言った。
それに気付いて堀尾は苦笑いをすると、歩の箸を取って、それを歩の右手に持たせた。
「兎に角、少しでも食いなよ。残した分は俺が食べるから」
「うん。分かった」
本当に食べたくなかったが、これ以上堀尾を心配させたくなくて、歩は無理をして弁当の3分の1ほどを胃の中へ入れた。
だが、放課後の部活で、歩は気分が悪くなってしまった。
吐きそうになり、慌てて体育館から駆け出すと、トイレへ向かった。
便器の中へ吐き出すと、胃の中の物は余り消化されていなかった。
歩が駆け出したのを見ていたのだろう、3年生でキャプテンの新田がトイレへ様子を見に来た。
「沢口?大丈夫か?」
「あ、はい…」
すぐに汚物を流し、歩は返事をすると水道へ行って口を漱いだ。
「吐いたのか?」
言いながら、新田は歩の背中を撫でてくれた。
「はい、少し」
口を漱いで濡れた唇を手で拭うと、歩は顔を上げて新田を見た。
バスケ部の中でもキャプテンの新田は1番の長身だった。小さな歩は、それこそ顎を高く上げなければ彼と視線を合わせられない。
「顔色が悪い。真っ青だぞ?保健室へ行った方がいい」
「いえ、大丈夫です」
歩がそう言うと、新田は眉を顰めた。
「大丈夫って顔じゃねえよ。兎に角行こう。俺も一緒に行ってやる」
「す、済みません」
歩は、新田に付き添われてそのまま保健室へ向かった。
まだ帰らずに残っていた校医が診察してくれて、寝不足と過労だろうと診断した。
それを聞いて、新田は眉間に皺を寄せた。
「少し休んでから、帰るといいよ。貧血も起きているようだから、ちゃんと病院へ行って薬を出してもらいなさい」
「はい…」
「私はもう帰るんだが…」
少し戸惑うように言った校医に、新田が頷いて見せた。
「いいです、先生。後で、俺が家まで送りますから」
「そう?じゃあ、頼むよ」
校医が出て行ってしまうと、ベッドの中から歩は新田に言った。
「キャプテン、俺、自分で帰れますから、部活に戻ってください」
「いや、そうはいかねえよ。一旦戻るけど、後でまた来る。監督には俺から言っておくから」
「すみません…」
心から済まなそうに歩が言うと、新田は笑って首を振った。
「いいよ。少し、眠った方がいい」
「はい」
新田が出て行ってしまうと、歩は目を閉じた。
胃の中の物を全部出してしまったので、もう吐き気は治まっていたが、何だか酷く疲れてしまった。
余りいい匂いとは言えない保健室のベッドだったが、でも、歩の眠気を誘うには十分に安心出来る場所だった。
「過労だって。やっぱり、チビだから体力も無いのかな…」
悔しそうにそう呟くと、歩は寝返りを打って小さく丸まった。
「時間が足りない。こんなこと、してる場合じゃ無いのに」
だが、歩の意思とは裏腹に言葉の最後は眠りの中に消えた。