手紙
-14-
(そう…し……?)
何が起きたのか、歩は暫くの間分からなかった。
なんだろう?
自分が見えなかったのだろうか?
でも、手を伸ばせば届くほどの距離を壮士は歩いて行ったのだ。
そんな筈は無い。
見えないなんて、そんな筈が無かった。
気が付かない訳が無い。
歩がそこに居ることを、壮士が気が付かなかった訳が無かった。
(だったら…?)
壮士はわざと、歩を無視したのだ。
そこに居るのを知っていながら、わざと見なかったのだ。
もう、見るのさえ嫌だったから。
ボタッ、と歩の足元に雫が落ちた。
そして、それは歩の瞳から次々と生まれ、頬を転がり落ちてどんどん足元を濡らした。
「会いたかったのに……」
呆然とした口調で歩は呟いた。
「会いたかったのに、壮士…」
もごもごと不明瞭な声で歩は呟き続けた。
「ただ、会いたかっただけだよ…?それだけでも、駄目だったの……?」
自分はもう、壮士にとって見る価値さえも失ったのだ。
そこに居ないと同じ存在にまで落ちてしまったのだ。
どんなに自分が欲しようとも、壮士は見てもくれないのだ。
ガクンッ、と突然歩の膝が崩れた。
支えていたものすべてを失い、歩は立っていられなくなった。
アスファルトの上に膝をつき、歩はそこに蹲った。
「沢口……?」
誰かが声を掛けたのが分かったが、歩は顔を上げなかった。
来月の練習試合でここの体育館を使うので、新田は監督と一緒に後に残って手続きをしてきたところだった。
ここの職員と話し込んでしまった監督を残し、ひとりで先に出て来た所に、地面の上に蹲っている歩を見つけたのだ。
「おい、どうしたっ…?」
駆け寄って来た新田が慌てて助け起こすと、歩は目を見開いたまま、顔中を涙で濡らしていた。
「沢口?」
尋常ではないその様子に驚き、新田は歩を抱き上げた。
「医務室へ…ッ」
すると、歩の手が新田のジャージを掴んだ。
「平気です……、キャプテン…」
「しかし…」
自分のことが分かるらしいと気付き、新田は少しだけ安堵した。だが、どう見ても、とても平気には見えない。
新田が戸惑うと、歩は彼の胸に顔を押し付けた。
「もう…、ここにいるの、嫌だ…。どこかに行きたいッ」
そう言われても、自分と歩の大きな荷物を背負い、尚且つ歩を抱いたままでは、さすがの新田も歩けないだろう。
「歩けるのか?」
そう訊くと、歩はこっくりと頷いた。
新田は歩の身体を地面へ下ろし、そこに置いてあった歩の荷物を空いている肩に担いだ。
「じゃあ、行こうか?すぐそこにバス停があるから、送っていくよ」
促されて、歩は何とか歩き出した。
バス停のベンチに腰を下ろすと、歩は呆然とした表情で黙ったまま座っていた。
新田はその隣に腰を下ろすと、拭おうともしない歩の濡れた頬を拭いた。
「大丈夫か?」
「はい…」
新田の方を見ようともせず、歩は焦点の合わない目つきで頷いた。
この状態では訊いても無駄だと思ったのだろう。新田は何があったのか訊こうとはしなかった。
その代わりに歩の手をそっと握ると言った。
「家に帰るか?それとも、俺のウチに来るか?」
すると、歩はゆっくりと首を動かしてやっと新田の顔を見た。
「キャプテンの…?」
「ああ。俺のウチの方がここからだと近いんだ」
「はい…」
歩は頷くと、疲れたように目を閉じて新田の肩に凭れた。
「キャプテンの家に行きます」
「そうか…」
頷いて新田は歩の肩をそっと抱いた。
なにか、余程の精神的ショックが歩に訪れたことは確かだった。
それが何なのか分からなかったが、新田はただ黙って傍に居ることを選んだようだった。
「バスが来たぞ。立てるか?」
そっと揺すると歩は目を開けた。
「はい…」
再び2つのバッグを両肩に担ぐと、新田は歩を後ろから支えるようにしてバスに乗せた。
ここからだとバス停を3つ行った所に新田の家があった。
新田は歩を席に座らせると自分は床に荷物を置いてその脇に立った。
歩は相変わらずぼんやりとして、新田が促すままに腰を下ろし、何を見るでもなく窓の外を見ていた。
やがてバスが着き、新田は歩を自分の家に連れて行った。
「あれ?お袋、いねえのか…」
玄関の鍵が掛かっているのを確認し、新田は呟くとポケットを探って家の鍵を探し出した。
「入れよ、沢口」
玄関を開けると、歩を促して中へ入り、そのまま自分の部屋へ連れて行った。
締め切った部屋は蒸し暑かったが、新田が窓を開けると風が吹き込んできた。
居ない間に母親が掃除したらしく、新田の部屋は綺麗に片付いていた。
初めて来た部屋の様子を見回すことも無く、ぼんやりと立ち尽くしていた歩だったが、促されてカバーの掛かったベッドの上にストンと腰を下ろした。
「なんか、飲むか?」
訊かれて、歩は首を振った。
「何にも要りません…」
すると、新田は歩の前に肩膝を付いた。
「じゃあ、少し眠るか?なんだか、疲れてるみたいだし、俺のベッドで良かったら横になっていいぞ?」
「はい…」
またぼんやりと答えて、歩はそこへ横になった。
ベッドは普通のダブルサイズだったが、勿論それでは新田の脚がはみ出してしまうのだろう。手作りらしい台で足元の方を継ぎ足してあった。
その大きなベッドに、歩は小さく丸まって目を閉じた。
何処からか大判のバスタオルを運んで来ると、それを歩の腹に掛け、新田は部屋を出て行った。
抱き上げられた時に感じた新田の匂いが微かにした。
それは当然、堀尾とも、そして、壮士とも違う匂いだった。
そして自分が、壮士の匂いを今でも覚えていることに歩は気が付いた。
そうだ。何一つ忘れてなどいない。
壮士と一緒にしたこと、壮士の言ったこと、壮士の癖、声の響き。
それなのに、壮士の方では、もう自分のことをすっかり忘れ去ってしまったのだろうか。
「うっ…」
また、悲しみが押し寄せ、歩の瞳から涙が溢れた。
今日をどんなに楽しみにしていたか。
今日をどんなに支えにしてきたか。
壮士に会えるというそれだけで、どんなに頑張れたか。
だがもう、自分には何も無くなってしまったのだ。
もう、どんなに頑張っても壮士は自分を認めてなどくれない。
どんなに頑張っても、元のように友達には戻れない。
笑い合うことも、話をすることも、一緒に過ごす時間を持つことも、永久にやっては来ないのだ。
「沢口…、大丈夫か?」
嗚咽が聞こえたのだろう、新田が心配して様子を見に来た。
だが、歩は泣き止むことが出来なかった。
新田はベッドの端に腰を下ろすと、躊躇いがちに歩の震える背中を撫で始めた。
「我慢しないで、泣いた方がいいぞ」
とうとう、その理由も聞かず、新田はただ泣き続ける歩の背中を撫でてくれた。
泣き疲れて涙が止まっても、歩は呆然としたまま、ただ横たわっていた。
すると新田は、オレンジジュースをコップに注いで持って来た。
抱き起こすようにして歩を座らせると、口元にジュースのコップを運んだ。
「飲めよ」
歩は素直に口を付けてジュースを口の中に入れた。
冷たさと酸味が喉に染み渡る。
両手でコップを持つと、歩は一気にそれを飲み干した。
「美味し…」
「もっと飲むか?」
訊かれて歩は首を振った。
「キャプテン…」
「うん?」
コップを傍の机の上に置き、新田は歩を振り返った。
「有難うございました」
「いいよ。礼なんて…」
笑いながらそう言うと、新田は心配そうに歩の顔を覗き込んだ。
「大丈夫か?」
「はい。もう、大丈夫です」
「そっか…」
瘧が落ちたような歩の様子に新田は頷いた。
「もう、昼を過ぎたぞ。なんか、食うか?」
「はい…」
食欲など無かったが、新田をこれ以上心配させたくなくて、歩は何とか口元に笑みを浮かべると頷いた。
新田は冷凍庫からピラフを見つけて、それをフライパンで炒めてくれた。
半分ずつ皿に盛り、歩の前にひとつを置いたが、それだけではとても足りない新田は、その他に自分用に食パンを3枚焼いた。
歩は何とか頑張って半分程を食べた。
そして、その残りは新田が全部平らげてくれた。
「どうする?帰るか?帰るんなら送っていくぞ」
そう訊かれて歩は首を振った。
「もう少し、居てもいいですか?」
まだ1人になるのが怖かった。
新田の傍に居てその優しさに縋っていたい。
すると、新田は笑いながら頷いた。
「いいよ。好きなだけ居ればいい」
部屋に戻り、新田がNBAのDVDを見せてくれた。 並んでベッドの上に腰を下ろし、2人は黙って画面を見つめた。
やがて、沈黙を破って新田が口を開いた。
「あの選手、小さいけど凄いだろ?沢口も、もっと足腰を鍛えればあの人みたいなプレイが出来ると思うぞ。おまえは勘がいいし、咄嗟時の判断力もある。自分の役割さえ掴めれば、絶対にいいプレイヤーになれると思う」
歩は新田の顔を見上げた。
いつでも、新田は自分のことをちゃんと見ていてくれる。
朝練を一緒にやって分かったが、始めてすぐから的確なアドバイスをしてくれるのに驚いた。それは、前々から、歩の練習をちゃんと見ていてくれたからだろう。
今度の合宿でもそうだった。
体力の無い歩の体調を、いつでも気遣ってくれていたし、平然を装っていても無理をしていることをちゃんと見抜いていた。
(見てくれる…。キャプテンは、俺のこと……)
そのことが、今の歩にはとても嬉しかった。
「また、教えてくれますか?」
そう訊くと、新田は笑って頷いた。
「ああ。部活はもう少しで終わりだけど、朝練は付き合うよ。でも、堀尾がな…」
そう言って、新田は苦笑した。
「あいつ、どんどん凶悪な顔になってきてるし、やっぱ、拙いかな…、俺が行くの」
それを聞いて、歩は必死で首を振った。
「でも俺、キャプテンに教えてもらいたい」
「沢口…」
じっと歩の目を見つめた後、新田は躊躇いがちに両手で歩の肩を掴んだ。
そっと唇が触れたが、歩は逃げなかった。
嫌じゃない。
そう思った。
唇を離して、また自分を見つめる新田を見上げると、歩は目を閉じた。
再び、唇が触れる。
そして今度は、さっきよりずっと深く重なっていった。
合宿が終わって3日間は部活も休みだった。
翌日の朝、堀尾からプールへ行こうという誘いの電話が掛かってきた。
「あ、ごめん…。今日は約束があって」
実は昨日送られて帰って来た時、新田から映画を見に行こうと誘われていたのだ。
「約束……?まさか、キャプテンと?」
電話の向こうで堀尾の声が急に険しくなった。
「ちっ、違うよっ。あ…、今日はその、母さんと、買い物付き合うって約束してて」
「そうか…。分かった、じゃあ、明日は?」
「明日は大丈夫」
「なら、明日、行こう?10時頃、迎えに行くから」
「うん、分かった。待ってるよ」
思わず堀尾に嘘をついてしまった。
歩は、電話を切った後で後悔したが、どうしても新田のことを堀尾に話す気にはなれなかったのだ。
歩が他の男と付き合うのは嫌だと堀尾は言った。
だが、今の歩には自分を包んでくれるような新田の優しさと労りが、どうしても必要だったのだ。
幾ら頑張っても、壮士は自分を見てくれない。
でも、新田は見てくれる。
いつでも、ちゃんと自分のことを見ていてくれる。
そのことが、今の歩には何よりも大事なことに思えた。
約束した9時半に間に合うように支度をすると、歩は母親に行き先を言って家を出た。
バスに乗って、映画館から1番近いバス停で降りた。
実は、歩はこちらに引っ越してから劇場で映画を見るのは初めてだった。
4つの劇場がひとつの建物に入っていて、入り口を入ると広いロビーがあり、チケット売り場の手前に、新田の大きな身体が見えた。
夏休みに合わせて封切りになったばかりの映画があり、朝でもロビーはごった返していたが、その中にあっても飛び抜けて大きい新田は、一目でその存在が分かった。
「キャプテン、おはようございます」
「おう、おはよう」
近付くと、新田は笑顔でそう言った。
「良かった…。今日は、顔色いいな」
心配してくれていたのだと知り、歩は頬を染めた。
「はい。キャプテンのお蔭です」
「何言ってる。ほら、行こう…」
少々照れくさそうな顔で目を逸らすと、新田は歩の背中を押した。
(手も大きいな……)
自分の背中に当てられた温かい大きな手は、どんな人ごみにあっても自分を導いてくれるような気がする。
このまま新田と付き合えば、もう、苦しむこともなくなるのではないだろうか。
そう思った時、新田が扉を開けて歩の身体を中へ入れた。
薄暗い劇場の中に入ると新田の手が歩の手を掴んだ。
「こっちだ…」
言いながら、席番を確認しつつ歩の手を引いて進んで行く。
歩は自分の手をすっぽりと覆い隠す新田の大きな手を見ながら付いて行った。