手紙
-19-
何故、こんなに優しいのだろうか。
別れた頃の壮士はこんな風に触ってなどくれなかった。
これはまるで、小さい頃、お互いが1番の存在だった頃の壮士のようだ。
歩が泣くと、例えその理由が歩の我侭でも、壮士は“ごめん”と謝ってくれた。そして、泣き止むまで撫でてくれたものだった。
「俺に何にも言わないで転校するなんて、きっと、怒ってるんだろうなと思ったよ。あの時、素直に謝らなかったこと、凄く後悔した……」
辛そうに言いながら、自分が打った歩の頬を、壮士は親指でゆっくりと撫でた。
「……歩、全然変わって無いな…」
今度は懐かしむようにそう言い、壮士の手が頬を離れて身体を撫でていく。
その意図が分からず、それが恐怖となって歩の身体を小刻みに揺らした。
「アユがバスケ部に入ったなんて驚いた。前は、全然興味無さそうだったのに…」
「う、うん…」
凍りついたように身体が動かなかった
歩がやっと返事をすると、壮士の手が止まった。
「誰かの影響か?友達とか?」
「べ、別に…。背……、背が伸びるかもって、思っただけ…」
「ふ…ん?」
頷くと、壮士はまた歩の頬に手をやった。
「この前、無視してごめんな?」
「あ……」
一瞬言葉に詰まり、歩は壮士を見上げた。
その顔は、心から済まないと思っているように見えた。
「まさかあんなトコに歩が居るなんて思わなくて……。今日、ここに来る事、小母さんには内緒にしてもらうように頼んだのに、バラしちゃったのかとか、色々と考えたら反応出来なくて…。ホントにごめん。悪かったよ…」
それなら、あの時無視したのは、自分を拒絶したからではなかったのだろうか。
ただ単に、壮士の方でも驚いていただけなのだろうか。
「い、いいよ…。もう、気にしてない…」
「ほんとか?怒ってない…?」
言いながら、壮士の手がまた歩の頬を撫でた。
「うん…。怒ってなんかないよ…」
歩が答えると、壮士は頬から手を離した。
「会えて嬉しいよ。歩は?」
「う、うん…。俺も、嬉しい…」
歩が答えると、壮士はふっと笑った。
「アユ、彼女出来たんだ?」
「えっ?」
思いがけない言葉に歩が驚くと、壮士の指が鎖骨の辺りを突付いた。
「キスマーク」
ハッとして、歩は思わずその場所を押さえた。
「変わってないと思ったけど、結構変わったんだな、歩…」
カーッと、頬に血を上らせ、歩は壮士から目を逸らした。
「先に居間に戻ってるな?」
そう声を掛けると、壮士は歩を残して部屋を出て行った。
身体から急に力が抜け、歩はその場にへなへなと膝を突いた。
(なんで…?)
何故、今頃になって現れるのだろう。
何故、また自分に関わろうとするのだろう。
折角、諦めようとしたのに。
やっと、自分の心を殺す事が出来たのに。
どうして、また?
歩は、鎖骨の下についたその痕に手をやり、ギュッと掴むように押さえた。
「変わってなんか無い。全然、俺、変わってなんか無いよ」
シャワーを浴びて着替えを済ませると、歩の気分も少しは落ち着いた。
壮士は、暫くこちらに泊まっていくつもりらしかった。
「13日に、私達が帰る時、一緒に帰りましょうって言ったのよ」
母親の話を聞いて歩は戸惑った。
それなら、後5日は、壮士はここに居る事になる。
「歩の部屋に布団敷くわね?後は空き部屋も無いし、いいでしょ?」
「う、うん…」
歩が曖昧に頷くと、壮士が話し掛けてきた。
「明日は?部活あるのか?」
「あ、うん。明日まで…」
「何時から?俺、練習、見に行っていいだろ?」
「えっ?」
驚いた歩に、壮士は眉を寄せた。
「駄目なのか?」
「だ、だって俺、下手だし…。恥ずかしいよ」
そう答えると、母親が横から口を出した。
「あら、そんなことないじゃないのー。壮ちゃん、歩ね、今度の練習試合に出してもらえる事になったのよー。1年生では、歩と、それからリトルからバスケをやってる堀尾君って子と2人だけなの。凄いでしょう?」
「へえ?凄いじゃないか、歩。頑張ってるんだ」
「そ、そんなことないよ。たまたま…」
「じゃあ、やっぱり、見に行こう。あ、でも、アユの方が俺より上手かったら、ちょっとショックだなぁ」
笑った壮士に、歩は強張った顔で答えた。
「そ、そんな訳無いじゃん。俺なんか、壮士より上手い訳ない…」
言いながら、歩の頭の中を色んな思いがグルグルと巡っていた。
明日、壮士が来たら、堀尾にも新田にも壮士を見られてしまう。その存在を知られてしまう。
それが、無性に怖かった。
特に、新田には知られたくない。
あの時、自分は新田に壮士の存在を否定したのだ。誰も、好きな人などないと言ったのだ。
それなのに、今更、壮士の存在を知られたら、どうしていいのか分からなかった。
「一緒に行ったら嫌だろうから、歩が出掛けた後に見に行くよ。帰りも先に、黙って帰るし」
壮士に言われて歩は慌てて顔を上げた。
「い、嫌だなんて、そんなことないよ。ただ、部外者の見学なんて、今までになかったから」
「ちょっと、体育館の外から覗かせてもらうだけでいいよ。それなら、いいだろ?」
「う、うん…」
歩は頷くと、お茶を飲み干して立ち上がった。
「じゃ、ちょっと俺…」
すると、忽ち母親が眉を顰めた。
「なあに?勉強?壮ちゃんが来てる時ぐらい休んだっていいじゃないの」
「でも、やらないと気持ち悪いから」
歩が言うと、壮士は感心するようにその顔を見上げた。
「凄いな、アユ。ホントに前とは全然違うんだ」
すると、口篭った歩の代わりに、母親が答えた。
「そうなのよ、壮ちゃん。歩ったら、こっちへ来たら別人みたいに優等生になっちゃってねえ。でも、この頃はちょっとやり過ぎじゃないかと思ってるの。何も、学校で倒れるほど、勉強しなくったって……」
「や、止めてよッ。そういうこと言うのッ」
「あっ、ごめん…」
歩に遮られて、母親は急いで口を噤んだ。
だが、歩は居たたまれなくて逃げるようにして自分の部屋へ入った。
壮士には格好悪い所を見られたくなかった。
倒れただなんて、相変わらず軟弱なのだと思ったに違いない。
壮士の傍に居る事が、こんなにも息苦しく感じるとは思わなかった。
以前は、そこにいるのが当たり前で、いつだって壮士の隣が自分の場所だった。その場所は、すでに理沙に奪われてしまったが、それでも壮士の傍にいて苦しいなんて思った事はない。
そして、その場所を理沙から奪い返したいとあんなにも願っていたのだ。
ぶるん、と歩は首を振った。
(もう、諦めたんだ…)
壮士が来たのは、ただ単に自分とその家族が懐かしかっただけに過ぎないのだ。
そして、きっと少しは自分を無視し続けていた事を後ろめたく感じていたのだろう。
どうせまた、家に帰ってしまえば会わなくて済む。だったら、ちょっとだけ良心を満足させてもいいだろう。
そうすれば、もう心の隅に引っ掛けておく必要も無く、すっぱりと忘れてしまえる。
(そうなんだ。きっと、そうだ…)
歩の存在を消し去る為に、きっと壮士は敢えて会いに来たに違いない。
歩はそう結論付けた。
(それ以外無いよ。今更、壮士が俺に会いたくて来た筈なんかないんだ…)
もう1度首を振ると、歩は教科書とノートを取り出して広げた。
そこへ、ノックの音がして、壮士が入って来た。
「歩、何か分かんないとことかあるか?もしあるなら…」
「い、いいよ。大丈夫。参考書見れば、大体分かるし…」
「そう?」
言いながら壮士は歩に近付くと、後ろから机の上を覗きこんだ。
「アユが勉強してるのなんか、俺、初めて見るかもな」
そう言って笑うと、壮士は歩の肩に手を乗せた。
クッ、と歩の身体が忽ち強張る。
それを感じたのか、壮士はすぐに手を離した。
「アユは元々、頭悪くないんだし、やれば出来るんだよな。邪魔してごめんな?」
そう言うと、壮士は部屋から出て行った。
その途端、フーッ、と歩の身体から力が抜けた。
「もう、ほっといてよ…」
机の上に頬を預け、歩は疲れたように目を瞑った。