手紙
-24-
その夜も眠れず、歩は明け方、重い身体を起こした。
ベッドの上に座り、薄暗い部屋の中で眠る壮士を見つめた。
暑いのか、掛けてあったタオルケットを蹴飛ばし、長い脚が敷き布団からはみ出していた。
ベッドから乗り出し、歩は躊躇いがちにそっと、壮士の脚に触れた。
自分の手の温度の方が熱かったのだろう。壮士の脚は、ひやりとした。
男の身体だ。
歩はそう思った。
自分とはまるで違う。 それは男の身体だった。
フッと手を引っ込め、歩はその手をもう一方の手でギュッと握った。
身体は少しも大人になれないのに、心ばかりが穢れていく。壮士に触れて欲情した自分が、歩は酷く汚く思えた。
吐き気がして、歩はベッドを抜け出すとトイレに向かった。
胃の中には、もう殆ど何も残っていなかったが、歩はそれを全て吐き出した。
翌朝、10時前に家を出て、歩は駅へ向かった。
10時5分前には着いたが、新田はもう来ていた。
「おはよう。なんだか、顔色が悪いな」
心配そうにそう言って、新田は歩の顔を覗き込んだ。
「そうですか?」
「ああ。具合が悪いんじゃないのか?だったら、また今度でもいいぞ」
「いえ、大丈夫です。行きましょう」
わざと明るく笑い、歩は新田の腕を引いた。
昨日、壮士と行ったことは新田には言わなかった。
初めて見るような顔をして、歩は新田と一緒に相変わらず人だらけの施設を巡った。
「混んでるなぁ。やっぱ、夏休みとかは駄目だな」
言いながら新田は歩の肩を庇うようにして抱えた。
壮士より更に10センチは背の高い新田は、まるで塀のように歩の身体を守ってくれた。
「肩車してやろうか?」
冗談口に言って新田が笑うのに、歩も釣られて笑った。
今日はレストランも何とか室内に席が空いていた。
早目に昼食を食べ、それからイルカショーの会場に並んで順番を待った。
ショーは昨日と同じ演目だったが、歩は楽しかった。
だが、見ている最中に歩のポケットで携帯電話が鳴った。
メールだったが、取り出してみると、相手は壮士だった。
驚いて文面を読むと、暇だったので、また1人で昨日の海岸に来ていると言う。
“今日は昨日より波が高いな。コンビニでサンドイッチを買って食べたんだけど、日陰がないから結構暑い。歩は今、何処にいるんだ?涼しいトコにいるのか?”
顔を上げて、歩は海の方に目をやった。
ここからは水平線が見えるだけで、壮士がいる海岸は見えない。
だが、すぐそこに壮士が来ているのかと思うと、歩は急に落ち着かなくなってしまった。
(なんで?なんで、来るの?なんでメールなんかくれるの?)
新田と一緒にいることを知っていながら、何故メールなど寄越したのだろうか。
返信を打たずに、歩は電源を切って携帯電話を仕舞った。
「友達か?」
「はい。マナーにしとくの、忘れちゃって…」
新田は頷いただけで、また視線を元に戻した。
だが、歩はもうショーを楽しむ余裕を無くしてしまった。
その後は気も漫ろで、新田に話し掛けられても曖昧な返事を繰り返した。
水族館を出ると、まさか海へ行こうと言い出すのではないかと内心怯えたが、新田は真っ直ぐに駅へ向かった。
歩の様子を不審に思ったのだろうか。新田も急に口数が少なくなった。
駅に着くと、また家に誘われるのではないかと思っていたが、新田は何も言わずに歩を家まで送り届けた。
「歩……」
「はい?」
見上げると、新田は寂しそうに笑っていた。
「もう…、今日で終わりでいいぞ」
「え…?」
意味が分からず、歩は訊き返した。
「もう、歩に無理させるのが可哀想で…。ホントは俺のこと、先輩として以上には好きじゃないんだろ?」
「キャプテン…」
驚いて目を見張った歩の肩に、新田の大きな手が乗った。
「もう、いいよ。ホントは他に好きな奴がいるって最初から知ってた。けど、おまえが違うって言ったから、知っていながらそれに付け込んだんだ。でも、おまえはずっと辛そうで……。これ上は無理だって分かった…」
「ちが…、違いますッ、俺っ……」
「いいんだ。俺を選ぼうとしてくれたのは分かってる。だけど、やっぱり無理だろ?辛い思いをするだけだよ」
「や……」
歩は首を振った。
涙が込み上げてくるのが分かった。
新田にまで、自分は今、見限られようとしている。
「嫌だッ」
新田の身体に縋りついて、歩は顔を押し付けた。
「いや…、キャプテンッ…嫌だッ」
「歩…」
辛そうに名前を呼び、新田は屈んで歩の身体を抱きしめた。
「ごめんな?でも俺…、おまえが思ってるほど大人じゃないんだよ」
「キャプテ……」
尚も縋り付こうとする歩を、新田は引き離した。
「ごめん…。支えてやれなくて、ごめんな?」
「ふ……」
嗚咽が込み上げ、歩は唇を噛んだ。
謝らなくてはならないのは自分の方だ。
辛い思いをさせてしまったのは自分の方なのだ。
それなのに、ただ泣くだけで、新田に償うことさえ出来ない。そんな自分が情けなくて、歩は尚も涙を溢れさせた。
その頭を撫で、新田は黙って帰って行った。
その背中が見えなくなるまで見送り、歩はまだ泣きながら家に入った。
そして、母親に顔を見られたくなくて、玄関から真っ直ぐ自分の部屋へ行った。
ドアを開けて、バッグを投げ出すと、部屋の中に壮士が立っていた。
「そ……」
出掛けているものだとばかり思っていた。てっきり、まだ帰っていないのだと思い込んでいた。
だが、壮士は開け放した窓辺に立っていた。
そこからは、今まで新田と一緒にいた歩が良く見えた筈だった。
「やっぱり。歩が付き合ってるのって、あのキャプテンだったんだな?」
妙に無表情で、だが、断定的な調子で壮士は言った。
「ち……」
弱々しく首を振り、歩は1歩後へ下がった。
「ちが……」
「嘘つくな…」
言いながら、壮士が近付いて来て歩の肩を掴んだ。
ビクッと、歩の身体が大きく揺れた。
壮士に知られてしまった。
自分が普通じゃないこと。
男と付き合っていたこと。
自分の異常さを、絶対に知られたくなかった部分を、とうとう壮士に知られてしまったのだ。
何を言われるのだろう。
どんな目で見られるのだろう。
歩は怖くて、とても顔を上げることが出来なかった。
(いやっ…。ごめんなさいッ、ごめんなさいッ…)
心の中で叫び、歩は微かに首を振ると、沸いてくる嗚咽を押し込める為に唇を思い切り噛んだ。
壮士に許して欲しかった。
こんなにも変わってしまった自分を、穢れてしまった自分を、許して欲しいと思った。
だが、どんな言葉を浴びせられるのかと怯えていた歩を、壮士の手は優しく抱き寄せた。
「可哀想に、こんなに泣いて…」
壮士の胸に頬を押し付けたまま、歩は目を見開いた。
「振られたんだろ?アユ…」
壮士は自分に同情しているのだ。
それに気付き、歩は驚いた。
相手が男だという事を知っても、壮士は自分に同情してくれたのだ。
しかも、抱きしめてくれたのだ。
歩は恐る恐る、壮士の背中に手を回した。
(いいの?壮士…。俺が変でも許してくれるの?)
小さい頃、歩が泣くといつでもしてくれたように、壮士はギュッと歩を抱きしめて、そして髪を撫でてくれた。
歩は懐かしい壮士の腕の感触を確かめるようにして目を閉じると、今度は嬉しさで込み上げてくる涙で頬を濡らした。
「でも…、男だなんて……」
壮士の呟きに、歩はハッとして目を開けた。
「信じられない。アユが、男と……」
歩の涙は突然止まった。
やはり駄目なのだ。
壮士は許してくれた訳ではなかったのだ。
ただ、振られた自分を可哀想だと思っただけで、認めてくれた訳ではなかったのだ。
「まるでガキで、女とキスしたことだって無かった癖に…。なんでこんな?前からそうだったのか?」
訊かれて歩は、また泣きながら首を振った。
何も言葉は出て来なかった。
少しでも期待を膨らませてしまっただけに、その落胆は激しかった。
悲しくて、怖くて、歩は壮士の腕から逃げ出した。
だが、その身体を壮士が後ろから抱きかかえた。
「待てよっ」
「や……ッ」
「遊ばれたんじゃないのか?初めてだから、訳分かんなくて、あいつの言う通りにしちゃったんだろ?そうだよな?アユ」
「壮士……?」
壮士の声が震えている事に、歩は気がついた。
ただ、同情しているだけではない。壮士は心から、自分を心配してくれているのだ。
それに気付き、歩は胸が苦しくなった。
自分の考えは間違っていた。
多分、壮士は小さい頃から何も変わってはいなかったのだ。
自分を大事に思ってくれている。多分、弟のように。
「そ…うし……」
痛いほどに、壮士の腕が身体を締め付けた。
熱い ……
その熱さを、自分の身体は履き違えようとしている。
歩はそれに気付いて愕然とした。
壮士にとってはただの同情でも、自分の身体はそれを見分けることなど出来ないのだ。
抱きしめられれば熱に浮かされたようになってしまう。頭では幾ら分かっていても、必死で戒めようとしても、こんなにも強く抱かれたら体中が痛いほどに脈打ち始める。
(駄目だッ、駄目だ、駄目だッ…)
考えてはいけない。
これ以上、壮士を汚してはいけない。
汚い……
この、自分を慰めようとする優しい腕にさえ欲情する自分が、歩は許せなかった。
汚いッ、汚いッ…
「いやぁ…」
小さな、悲鳴のような声を上げ、歩は闇の中に意識を落とした。