手紙


-28-

唇が触れそうな気がして、歩は驚いて身体を強張らせた。
「壮ちゃん、歩、起きてるの?」
ドアの向こうで母親の声がして、壮士はハッとして額を離した。
ガチャッ、とドアが開き、母親が顔を覗かせた。
そして、涙に濡れた歩の顔と、その両手首を掴んだままの壮士を見て、眉根を寄せた。
「なあに?喧嘩?まったく…、小さい頃と変わってないのねえ、あなたたち」
呆れたようにそう言って笑うと、母親は歩に言った。
「歩、何にも食べないと良くないわよ。ご飯が嫌なら、冷麦があるから食べなさい」
「うん…」
「壮ちゃん、お父さんまだ帰って来ないから、先にお風呂に入ったら?」
「あ、はい…」
名残惜しそうにベッドから降り、壮士は何か言いたげに歩を見たが、まだドアの所に立っている母親を気にしてか、結局何も言わずに部屋を出て行った。
歩は、母親と一緒に食卓へ行った。
「ご飯がいい?お魚の煮たのとか出汁巻きとか、あるけど」
「ううん、冷麦でいい」
食卓の椅子に腰を下ろしながら、歩はさっき壮士が何を言い掛けたのか気になっていた。
それに、さっきの壮士はまるで、キスしようとしているように見えた。
(まさか……)
ブルッと首を振り、歩は箸を取り上げた。
(自分に都合のいいように考えようとしてるんだ。期待して、また傷つくのは目に見えてるのに。ホントに馬鹿だな、俺……)
でも、まさか壮士が堀尾に会いに行ったとは思わなかった。
そうまでして、自分のことを知ろうとしてくれたことが歩は嬉しかった。
(俺のこと、切り捨てようとすれば済むことなのに…。俺の気持ちなんて、無視してしまえばそれで終わるのに…。やっぱり、壮士は優しい……)
まだ、友達として接してくれるつもりなのだろうか。
それとも、後2日間の辛抱だと思って優しくしてくれるのだろうか。
(もう、どっちでもいい…)
フッと溜息をつき、歩は箸を止めた。
今夜はもう、壮士と一緒の部屋で眠るのは嫌だった。
だが、他に寝る場所もない。
また、一晩中まんじりともせずに、眠れぬ夜を過ごさなくてはならないのだろう。
今はもう、壮士の安らかな寝息さえ、歩の心を痛めるのだ。
歩はまた溜息をつき、重い箸を持ち上げた。



歩が風呂から上がると、壮士はもう居間にはいなかった。
父と母も寝てしまったらしく、明かりが消えている。
歩はキッチンへ入って、冷蔵庫からミネラルウォーターを出すと、グラスに注いでそれを飲んだ。
部屋に行こうとしたが足が重い。だが、逃げ出す訳にもいかなかった。
ドアを開けると、部屋の中は暗かった。
壮士は寝てしまったのか、天井の常夜灯だけが燈っていた。
歩はそっと足音を忍ばせてベッドへ近付くと、やはり音を立てないようにして上った。
壮士が横になっているのが黒いシルエットになって見えたが、わざとそちらを見ずに背中を向けて横になった。
タオルケットを抱え、その中に吹き込むようにして、歩は息を吐いた。
「アユ…」
声を掛けられて、歩はビクッと震えた。
壮士の起き上がる気配がし、ベッドに上がって来たことが、その軋みで分かった。
「な、なに?寝てるのかと…」
「眠れる訳ない。さっきの続き、ちゃんと話したくて待ってたんだ」
「さっきの?」
振り返るとすぐそこに壮士の顔があった。
起き上がろうとすると、歩の顔の横に壮士の両手が突かれた。
覆い被さるようにして上から顔を覗かれ、歩は緊張して身体を硬くした。
「俺が、なんでアユから離れなくちゃならなかったのか、言わなきゃな…」
「え…?」
まさか、壮士の口からそんな言葉が出るとは思ってもみなかった。
一体、どんな話が始まるというのか。歩は、思わずコクッと喉を鳴らして唾を飲み込んだ。
「多分、中学3年になった頃からだったと思う。あの夢を見るようになったのは…」
「夢?」
歩が聞き返すと壮士は頷いた。
そして、じっと歩を見つめたまま、ゆっくりと片手を上げると、指の甲でその頬を撫でた。
ぴくん、と歩が震え、また身体が強張った。
だが、それを感じている筈の壮士は、構わずに指を動かし続けた。
「その前から、徐々に自覚はしてた。友達から仕入れたエロ本を見てオナニーしても、イク時に浮かぶのは、何時だってアユ、おまえの顔だったから…」
「えっ…?」
驚いた歩が目を見開いたが、壮士は手を止めることはなかった。
「自分はおかしいって分かってた。けど、認めたくなくて、友達の兄貴に頼み込んで裏ビデオを借りて見たりした。勿論本番で、金髪の巨乳モノだったけどノーマルだけじゃなくて、後ろに挿入れてる場面もあって……」
壮士の言葉と共に、指の動きも止まった。
「あれを見た後からだよ。オナッてる時、頭に浮かぶのがアユとセックスしてる場面ばかりになったのは…」
「う、うそ…」
信じられない。
まさか、壮士がそんなことを考えていたなんて、歩は信じられなかった。
(からかってるの……?)
自分の気持ちを知って、からかっているのだろうか。
自分の反応を見て、楽しむつもりなのだろうか。
疑心暗鬼になって、歩は目の前の壮士の顔を凝視した。
だが、暗い上に逆光で、その表情が読み取れない。
「段々……、怖くなって、アユと一緒にいるのが堪らなく恐くなって、園田にコクられたのをいい事に付き合う事にした。……きっと、欲求不満なんだと思った。だから、1番近くに居るおまえをオカズにしてしまうんだろうって……。怖くて、無理にでも、そう思いたかったんだ」
壮士の指が、今度は髪の中に入りこんだ。そして、歩の髪を漉くように動き始めた。
「誘われて園田としたけど、でも、やっぱりイク時はアユの顔が浮かぶんだ。何度しても、それは変わらなかった。……その内、園田としても満足出来なくなって…」
フッと、壮士が笑ったのが気配で分かった。
「夜になると、毎晩のようにおまえを犯す夢を見るようになった。どんなにアユが泣いても、縛り上げて、無理やり開かせて、泣き叫ぶおまえに突っ込んでる夢……」
なんだか怖いような声色に、歩はブルッと震えた。
すると、壮士の身体が降りて来て、歩の上に完全に覆い被さった。
「壮士、やめてって、痛いよって、可哀想なくらい泣いて……。けど、俺は決して止めない。おまえの身体を押さえつけて、満足するまで何度も、何度も、犯し続ける……」
歩の肩の上で、壮士はくぐもった声で話し続けた。
「目が覚めると、いつも夢精して酷く下着を汚してた。それなのに……、朝になると、おまえは何も知らずに無邪気な顔して俺を迎えに来る……」
苦しそうにそう言うと、壮士は一旦言葉を切った。
「気が…、狂いそうだった…」
搾り出すように、壮士は言った。
それを聞いて、強張っていた歩の体から、ゆっくりと力が抜けた。
「離れなきゃ、いつか現実になると思った。俺は多分、我慢出来なくてアユを犯すだろうって…」
顔を上げて、壮士は再び歩を見下ろした。
「恋だなんて、気付かなかった。あんまり近くに居すぎた所為なのかも知れないけど、俺には自分の感情が、ただの汚い欲望だとしか思えなかったんだ…」
「壮士…」
歩の両手が、そっと壮士の背中に回された。
「だから、怖かった……。アユと、離れたかった…」
ポタッと、歩の唇の横に雫が落ちた。
それが、壮士の涙だと知り、歩の胸がギュッと掴まれたように苦しくなった。
「泣いてるの?壮士…」
「アユ…」
また、壮士の身体が歩に重なる。
そして、濡れた睫が歩の頬に押し付けられた。
あの時、壮士の気持ちを知っていたら、こんなに遠回りをしなくて済んだのだろうか。
だが、歩にはそうは思えなかった。
あの時の自分は余りに子供過ぎた。
壮士の抱えている劣情を知っても、それを受け入れられたとは思えない。
もし、壮士が堪え切れずに欲望をぶつけて来たら、多分、自分はただ壮士を恐ろしく思っただろう。
そして、それきり、2人の仲は終わってしまったかも知れない。
同じ思いを抱え、散々に悩み抜いた今だからこそ、歩には壮士の苦しみが分かるのだ。
「アユが黙って転校したのは、もしかして、俺の欲望を知ったからじゃないかと思った。何度も、電話しようと、メールも打とうと思ったけど、俺に怯えるアユの姿が目に浮かんで、結局は何も出来ないまま時間ばっかり経ってしまった」
投函出来ない手紙を書き続けた自分。
その向こうで、壮士もまた、同じように勇気を出せずにいたのだ。

なんと似ているのだろうか。
なんと、もどかしくて、そして、愛しいのだろうか。

知らず知らずの内に、歩は壮士を抱きしめていた。
「合宿所の場所を知った時、やっと決心がついた。アユに会いに行こうって…」
首を動かして、壮士が更に歩に擦り寄った。
「あんなに離れたいと思ったのに、本当にアユが居なくなったら、もう何も考えられなくて……。毎日、毎日、アユのことばかり思い出すんだ。……まさか、あそこにアユが待ってるなんて思いもしなくて、あの時は、まだ全然、心の準備が出来てなかった。何を言ったらいいか迷っている内に、結局は言葉が見つからなくて、アユの顔さえまともに見るのが怖くて……、ごめんな、ほんとに……」
「ううん。いいよ、壮士…。もう、いいんだ…」
歩の肩を包んでいた壮士の手に力が篭る。
熱い息が、歩の喉に掛った。
「でも…、俺があの時ちゃんと話してれば、アユが他の男と付き合うことなんてなかったろ?」
多分、堀尾に事情を聞いたのだろう。苦しげに壮士が言うのに、歩は答えられなかった。
「迎えに行ったら、アユがあいつとキスしてッ……」
ハッとして歩の身体が強張った。
では、体育倉庫の人影は、壮士だったのだ。あれは、目の錯覚などではなかったのだ。
最初から、壮士は自分の相手が新田だと知っていたのだ。
「あれを見たら、もう、会いに来た理由を言えなくなった。遅過ぎたんだと、どれほど後悔したかッ…」
「壮士ッ」
ギュッと、歩の手が壮士のシャツを掴んだ。
すると、壮士がやっと顔を上げて歩を見た。
「だから…、アユが振られたんだって思ったら、嬉しかった。すげえ心が狭いだろ?俺……。呆れるよな」
苦笑した壮士に、歩は首を振った。
「ううん…。俺だって同じだよ。手紙読んだなら分かるだろ?」
「手紙、あんなに沢山……。あの1枚1枚を、アユがどんな気持ちで書いたのかって……。俺が、自分のことだけしか考えられなかったばっかりに…」
壮士は再び、歩の頬に瞼を擦り付けるようにして言った。
「アユ…、好きだよ、アユ。アユだけ……」
「壮士…」
ジン、と、歩の胸が熱くなった。
押し寄せてくる感動で、息が止まりそうになる。
壮士からこんな言葉を貰える日が来るなんて、歩は夢にも思っていなかった。
それとも、今この時が夢なのだろうか。
だが、この熱いほどの体温が夢の訳はない。
壮士の汗の湿り気さえ、歩の身体は感じている。
そして、壮士の息が確かに産毛を撫でていた。
「アユ…」
囁く声が唇にかかった。
そして、やんわりと柔らかな弾力が歩の唇を覆った。
ピクッ、と身体が無条件に揺れた。
なんだか、妙な感覚が歩を襲った。
壮士のキスだ。
欲しかった、あんなにも欲しかった壮士のキス。
なのになんだろう?
ざわざわと、嫌な感覚が押し寄せてくる。
歩の胸の奥底から、それは湧き上がってくるようだった。