この空の果てまで
送信ボタンを押した後、僕は大きく溜め息をついて頬を枕に乗せた。
約束していたのに、来られなくなったと葦原からメールが来たのは今日で何度目だろうか。
勿論僕は、それで葦原を責めるつもりなんか無い。
こうしてちゃんと、その度にメールをくれるだけでも葦原は誠実だと思う。
それだけ、僕のことを大切に思ってくれているのだと分かっている。
でも、寂しさは拭えないのも確かだった。
「会いたいな……」
思わず、そう呟いてしまい、僕はハッとして口を押さえた。
例え独り言でも、こんなことを言ったら葦原に悪いような気がした。
葦原だってきっと、僕との約束を破らなければならないことを気に病んでいるに違いないのだ。
パシャッと水音がして、僕は目を上げるとそこに置いてある水槽を眺めた。
葦原がプレゼントしてくれた2匹の金魚は、今日も元気に水草の間を泳ぎ回っている。
貰った時は、本当に小さくて指の第1関節ぐらいしかなかったが、今では親指1本ぐらいの大きさまで育っていた。
「ジンジャー、ペッパー、里久が来られなくなっちゃったって…」
そのつもりは無くても、僕の声はいかにも残念そうに聞こえた。金魚たちが、もし口が利けたら呆れられたかも知れないと思った。
恋人の葦原里久が急に忙しくなったのには理由があった。
アルバイトしていたカフェの店長の友達でCMの制作会社に勤めている人がいるのだが、たまたま店に遊びに来ていたその人に、葦原はスカウトされたのだ。
最初は、すぐに断ったらしかったが、相手は中々諦めてくれず、カフェの店長は葦原の親戚でもあるし、彼にも強く勧められて断り切れなくなってしまった。
どうやら、新しく製作する清涼飲料水のイメージに合う青年を随分探していたらしく、葦原はそのイメージにぴったりだったらしい。
CMには女の子も出ることになっていた。
その相手役は、モデルでタレントの工藤結花だった。
彼女は今、人気急上昇中のタレントだったし、その相手に素人からいきなり抜擢されたのだから、やはり葦原は凄いと思った。
撮影は、葦原のバイト先のカフェを使うことになって、店長も宣伝になると大喜びだったらしい。
当日は、随分、野次馬が集まったそうだ。僕のクラスの女子などは大半が押しかけたらしい。
”そうだ”と言ったのは、勿論僕は、見に行かなかったからだ。
その時の様子は、葦原からではなく、友達の野々宮小枝さんに後から聞いた。
一緒に行こうと誘ってくれたが、僕は断った。
相変わらず、僕と葦原は学校では余り話をしない。仲がいいと思われていないのに、僕が葦原の撮影を見に行ったりしたら変だろうと思ったし、それに、僕の知らない葦原を見たくないという気持ちもあった。
撮影は1ヶ月ほど前に終わったのだが、出演したCMのクライアントに気に入られてしまった葦原は、その会社の他のCMにも出ないかという話が持ち上がっていた。
CM制作会社の人の話では、出来上がったフィルムが放送されるようになるとテレビ局からも注目されるし、もしかすると他にもオファーが来るのではないかと言われたらしい。
「そんなこと言われてもなぁ…。俺、別に芸能界とか興味無いし…」
当の葦原は余り嬉しそうでもなく、出演は今回きりのつもりらしかったが、周りはそう簡単に諦めてくれそうも無かった。
バイトに行っても、葦原を一目見ようとする女の子たちでカフェは連日、凄い人出らしい。葦原が店に出ている日は、空席待ちで外に行列が出来ていることも珍しくなかった。
ストーカーとまでは行かなくても、バイト帰りに後を付けられたりしたこともあって、葦原は何時ものように僕の家に来ることも難しくなってしまった。
「ごめんな?七綱…。まさか、こんな騒ぎになるなんて思わなくて…」
電話をくれた葦原に、心配させまいとして僕は精一杯明るく答えた。
「ううん。大丈夫だよ。僕のことは気にしないで?」
相変わらず、葦原は優しい。そして、僕のことを気遣ってくれる。
勿論、葦原自身は何も変わっていないと分かっている。
だが、僕にしてみれば、彼が段々遠くなるように思えて怖かった。
学校では会えるが、まさかみんなの前で彼に甘えることも出来ない。学校での僕と葦原の距離は、近いようでいて遠かったのだ。
引き出しから、葦原に貰った指輪を出して僕はそれをチェーンに通した。
学校へはしていけないので、普段は机の引き出しに大事に仕舞ってある。だが、少しでも葦原を傍へ感じたくて、僕はそれを首へ掛けた。
大好きな葦原
。
好きで、好きで、好きで、彼が振り向いてくれたことが、僕にとっては奇跡のようなものだった。
一緒のクラスに半年も居て、最初、葦原は僕の名前どころか存在さえ知らなかったのに、今では僕を好きだといってくれる。傍に居て、抱きしめて、僕だけを見てくれる。
今でも僕は、全てが夢なのではないかと疑ってしまいそうになるのだ。
だから、会えないからって我侭を言おうなんて思わない。
だけど、このまま彼が離れて行ってしまうのではないかという不安が、僕の中に生まれたのは確かだった。
傍に居る時だって、コンプレックスの塊の僕は、いつも何処かで不安がっていた。
だって、葦原は、本当なら僕なんかの手が届くような相手じゃなかった。
いつも誰かの憧れで、格好良くって明るくって、取り巻きに囲まれている太陽のような存在。
その傍らで、僕は何時も影の中にひっそりと佇んでいた。
接点なんか、ほんの1点さえなかったのだ。
僕はいつでも、遠くから彼を眺めて胸を焦がしているだけだった。それだけで、満足していたのだ。
でも、奇跡が起きた。
葦原は僕を見つけて、そしてその手を取ってくれた。
僕に、信じられないほど沢山の幸せな時間をくれた。
僕を見つめてくれる。
可愛いと言ってくれる。
好きだよ、と言ってくれる。
勿論、その言葉の全てを僕は信じている。
だけど、人の心が変わるのも、僕はちゃんと知っているのだ。
だから、怖い。
どんなに幸せでも、僕はその、ほんの少しの恐怖を拭い去ることが出来なかったのだ。
不安を胸に抱いたままで朝を迎えると、僕は何時もの時間に家を出た。
学校へ行くと、クラスの中ではちょっとした騒ぎが持ち上がっていた。
葦原が芸能界入りして転校するらしいというのだ。
(う…、嘘…ッ。里久はそんなこと言わなかった…)
芸能界入りなんてあり得ないと言っていたし、興味も無いとはっきりと僕に言ったのだ。
まさか、こんな短い間に心変わりしてしまったと言うのだろうか。
でも、だとしても、きっと僕には話してくれる筈だ。何も言わないなんて、そんなの葦原らしくない。
一体、誰が聞いてきた噂なのだろうか。本人はまだ教室に現れていないのだから、きっと、何処か他の人から聞いたに違いない。
「葦原本人が言った訳じゃないんでしょ?」
呆れたように、野々宮さんが騒いでいるみんなにそう言った。
「本人に確認してから騒ぎなよ。ホントかどうかも分からないのに、大騒ぎすること無いじゃん」
そう言うと、野々宮さんは何気なく傍に居た僕の肩に手を置いた。
きっと、僕が青くなったのを見て、みんなに分からないように励ましてくれたに違いなかった。
(ありがとう…、野々宮さん…)
心の中でそう言うと、僕は彼女の言葉をもう1度自分に言い聞かせた。
本当なら、きっと、葦原は話してくれた筈だ
僕はもう、何があっても葦原の気持ちを疑ったりしないと誓ったのだ。
だから信じる。
葦原は僕に隠し事なんかしない。
僕は無意識に頷くと、まだザワザワとしているクラスメートたちに背を向けて自分の席に座った。
さっきの興奮状態は野々宮さんのひと言によって静められはしたが、それでも、みんなの騒ぎは収まらず、ヒソヒソ声で葦原の噂は続いた。
中には、葦原が転校するかも知れないと思っただけで悲しくなってしまったのか、泣き出す女生徒も居た。
そんな騒ぎとは裏腹に、HRが始まる前、殆どギリギリになって当の葦原は現れた。
みんなが一斉に彼に向かって口を開こうとしたが、前の扉が開いて先生が現れ、仕方なくみんなは葦原を振り返りながら席に着いた。
僕も、そっと振り返って自分の席に着いた葦原を見た。
そして、その表情を見て、また不安に駆られた。
葦原は妙に緊張した、険しい顔をしていたのだ。
そして、いつもなら必ず僕の方を見てくれるのに、今日は前を向いたままで僕の方に視線をくれることも無かった。
(里久…)
思わずギュッと、僕は両手を握り締めていた。
嫌な予感が、僕を包み込んで放さなかった。早く楽になりたくて、僕は何度もちらちらと葦原の方に視線を投げた。
みんなも気になるらしく、HR中も自然と葦原に視線が集中した。そして、HRが終わると、みんなが一斉に葦原の席に駆け寄った。
「ちょ、ちょっと待ったッ」
口々に言葉を浴びせるクラスメートたちを制して、葦原は立ち上がると声を張った。
「みんなが何処で何を聞いてきたのか知らないけど、今のところ、俺は何も決めてないし、益してや転校する予定も無い。悪いけど、この話題はこれっきりで止めてくれないか。騒がれたくないし、勝手な想像をされるのも困る。頼むよ」
はっきりとそう宣言した葦原を見て、みんなは一先ず安心したようだった。
特に、転校する予定は無いと聞いて、“良かった“と口々に呟いた。
だが、僕はまだ安心することは出来なかった。
これでも、ずっと葦原を見てきたのだ。彼の表情には何処か迷いが感じられる。
みんなを静める為に言っただけで、本当は違うのかも知れないと思った。
授業が始まる前に、葦原は一瞬だけ、サッと僕を見た。
そして、その表情は相変わらず険しいものだった。
僕を安心させる為に笑ってくれることも無く、さっきの言葉を信じさせてくれる要素は感じられなかった。
やっぱり、噂は、全部ではないにしても真実が混じっているのかも知れない。
(いや…)
葦原が離れていく幻影が、不意に脳裏に現れた。
それが現実になるような気がして、僕は堪らなく不安になった。
もしかして、時限休みに、くれるかもと思った葦原からのメールは届かなかった。
僕はいつも通り、話しかけることも出来ないまま、ただ、ジリジリと彼からの接触を待つしかなかった。
きっと、説明してくれる。
噂は嘘だと言ってくれる。
何処へも行かないと笑ってくれるに違いない。
それだけを、僕はじっと待ち続けた。
昼休み、弁当を持って僕は裏庭へ出かけた。
もう寒くなってきたこともあり、外で弁当を食べる生徒は居ない。でも、もしかすると葦原が来てくれるのではないかと思って、僕は温室があったあの場所へ向かった。
だが、待っていても葦原は現れなかった。
その代わり、ポケットでマナーモードにしてあった携帯電話が震えた。
見ると、相手は葦原だった。
メールのフォルダを開いて、僕はすぐに葦原からのメールを読んだ。
”七綱、心配掛けてごめんな?昨夜も行けなくて、話し出来なかったし、そしたら今朝はこんな騒ぎになってるし…。きっと七綱は不安に思ってるんじゃないかって心配してたんだ。今日は、家に行けると思うから、ちゃんと話すよ。それまで待ってくれ。ごめんな?”
「里久…」
文面を読んで僕は安心するどころか益々怖くなった。
なんでもないなら、噂が嘘だったら、きっと葦原はメールでもそう言う筈だ。それなのに、否定する言葉がひとつも入っていない。それは、噂が嘘じゃないからではないのだろうか。
そう思って泣きそうになり、僕は急いで首を振った。
こんな自分を変えようと決めた筈だった。
自分の思い込みや、自分勝手な考えの所為で葦原を失いかけたのではないか。
僕が想うのと同じぐらい、葦原も僕を好きなのだと言ってくれたではないか。
それを信じると決めたのだ。
だから、1人で考え込む悪い癖は止めなければ駄目だ。
ちゃんと葦原の話を聞くまで、余計なことを考えるのは止めよう。
そう思って、僕は弁当の包みを開くと、勢い良くご飯を口の中へ入れた。
「あ、こんなトコに居た。寒くないのー?」
元気な声が聞こえて振り返ると、野々宮さんが此方に歩いて来るのが見えた。
「野々宮さん、ランチルームに行ったんじゃないの?」
友達と誘い合ってランチルームへ行った筈の彼女が、ここに現れたことを不思議に思って僕は訊いた。
「うん…。行ったんだけどね、北野のこと気になったからさ」
「あ、ありがと…。ごめん、心配掛けて」
僕が慌てて立ち上がろうとすると、野々宮さんは笑ってチョイチョイと手を振り座るように示した。
僕が頷いて、浮かしかけた腰をまた戻すと、野々宮さんはスカートを抑えながら僕の隣に腰を下ろした。
「私もここで食べよっと…」
可愛いランチボックスを取り出して、野々宮さんはそう言った。
「あ、北野のお弁当美味しそう。お母さんが作ったの?」
「ううん。今日は僕が…。母は昨夜、夜勤だったから、僕が家を出てから帰って来たと思う」
「そっか。お母さん看護師さんなんだったね。ふぅん…、凄いな北野。料理上手いんだね。私の開け辛くなっちゃったよー」
「そんなことないよ。適当に、残り物とか冷食とか詰めてきただけだし」
「そうなのー?でも、綺麗に詰めてあるし美味しそうだよ」
「ありがと…」
でも、そう言った野々宮さんのも女の子らしくて、綺麗にレイアウトされた美味しそうなお弁当だった。
「あ、おかず、取替えっこしようよ。ね?」
「あ、うん。いいよ、好きなの取って」
僕が弁当箱を差し出すと、野々宮さんは嬉しそうにおかずをひとつ摘んだ。
でも、それを口に入れず、思い出したように俺を見て言った。
「ねえ、北野…。さっきの噂のことだけど、葦原から何にも聞いてなかったの?葦原は否定してたけど、何にも無かったらあんな噂が出る訳無いと思うんだ」
やはり、野々宮さんも僕と同じように感じたらしい。僕は頷いて、弁当箱を膝の上に載せた。
「何も聞いてないよ。…だって、ここ暫くは学校以外では会ってないし…。電話では話してたけど、転校なんてそんな話、葦原は言ってなかった」
「そう…」
呟くと、野々宮さんも摘んだおかずを弁当箱の中に入れてそれを膝の上に載せた。
「北野が何も知らないんだったら、やっぱりただの噂なんだね。だって、そんな大事な話を葦原が北野に黙ってる訳無いもん」
そうだろうか……。
野々宮さんの言葉に、僕は素直に頷くことが出来なかった。
僕の性格を良く知っている葦原だからこそ、僕を落ち込ませまいとして黙っていたのではないのだろうか。
そんな気がして、僕は怖かった。
「芸能界入りのことも、興味無いって前は言ってた。でも…、事情が変わったのかも知れない。さっき、里久はみんなにもはっきり否定しなかったし…」
僕がそう言うと、野々宮さんも溜め息をつきながら頷いた。
「そうなんだよ。それは私も感じた。もしかして、前に言ってた新しいCMの話、断れなくなっちゃったんじゃないのかなぁ…」
「うん…」
そうかも知れないと、僕も思っていた。やはり、野々宮さんも同じように感じたのだ。
「先行で張り出された葦原のポスター、剥がされて持って行かれちゃうんだってよ。まだ、CM1本出ただけで、しかも放映もされてないのに、凄いよねえ。カフェの方も今や営業妨害に近いって。バイト辞めるんじゃないかって友達が言ってたよ」
それも僕が知らない話だった。
きっと、それも含めて今夜色々と説明してくれるつもりなのだろう。
でも、もしかして葦原が芸能界に入ることになったら、僕は彼と別れなければならないかも知れないと思った。
芸能人になった葦原の傍に、僕なんかがいることが許される筈が無い。
「今夜、ウチに来てくれるって、さっきメールくれたんだ。だから、きっと説明してくれると思う…」
僕がそう言うと、野々宮さんの手が肩の上に乗った。
「北野、心配すること無いよ。例え、芸能界入りが決まったとしても、葦原は北野と別れたりしないって。絶対、大丈夫だよ。ね?」
僕の不安を感じ取ったのだろう。野々宮さんは一生懸命慰めようとしてそう言ってくれた。
「ありがとう…。うん、僕、里久を信じてるから…。大丈夫、心配しないで?」
「うん」
精一杯笑って見せると、野々宮さんも笑みを浮かべて頷いた。
その夜、ずっと待っていたが、葦原は中々来なかった。
母は夜勤明けで家に居たので、僕は友達が来るからと断っておいた。
だが、その母が寝てしまっても葦原は現れなかった。
ずっと、携帯電話を握り締めたまま、僕は階段の途中に座って玄関のドアを見つめて待った。
不安が、どんどん胸の中で大きく育っていた。
今日はアルバイトへ行ったのだろうか。
それで遅くなっているのだろうか。
だが、追っかけの女の子たちが煩くて、今はバイトにも出られない状態らしいと昼間野々宮さんから聞いたばかりだった。
「里久…」
呟いて携帯電話を持ち上げた時、手の中でそれが振動した。
葦原の名前が現れて、僕は急いで携帯を耳に当てた。
「もしもし?里久?」
「七綱、今、門の所まで来てるんだ。早く、玄関の鍵、開けてくれ」
「う、うんっ。すぐ開けるよっ」
切羽詰ったような葦原の様子に僕も慌てて立ち上がると、玄関に下りてドアの鍵を開けた。
すると、間も無く葦原が飛び込んで来た。
サッと外を見て、すぐに扉を閉めると、葦原は僕を見て、安心したような表情を見せた。
「七綱…」
名前を呼ぶなり僕を抱き寄せ、葦原はギュッと僕を胸に抱いた。
「里久…」
胸の中に熱いものが込み上げる。
最後に葦原に抱きしめられたのはそれ程前のことではないのに、遥か昔に感じられた。
「ごめん、遅くなって…。また、後付けられて、撒くのに時間掛かったんだ。この頃、家の周りにも追っかけらしい子達が居て、朝も見張ってるんだ。学校へ行くにも一苦労で…」
「そうだったんだ…」
疲れたような葦原の顔を見て、僕は可哀想になった。
今まで普通に生活していたことが、今では難しくなっているのだ。葦原だって随分厄介な思いをしているのだろう。
「母さん、もう寝ちゃったんだ。先に部屋に行ってて?何か温かいものでも淹れてくるから」
「いや、いいよ。何にも要らない。早く、部屋に行こう」
「う、うん…」
僕の手をギュッと握り、葦原は階段を上り始めた。
その力強さが、今の僕には酷く嬉しかった。