この空の果てまで


-5-

家に帰って、寝る間際になると、僕はやっと携帯の電源を入れた。
葦原からの着信が何度も履歴に残っていた。
そして、僕が出ないのできっと諦めたのだろう、メールが1通入っていた。

“携帯の電源、切ってるんだな?怒ってるんだろ?分かってるよ…。
ごめん…
結花が来ること、七綱にちゃんと言うべきだった。
でも、また七綱が不安がるんじゃないかと思って言えなかったんだ。
前に、撮影の後に結花が具合悪くなったことがあって、家には誰も居ないっていうし、放って置けなくて家に連れて行った。そしたら、結花の事情を知ってお袋が心配して、たまにご飯食べに来るように誘ったんだ。
結花も人恋しかったんだと思うけど、凄く喜んで…。今日は転校初日で疲れてるだろうからって、お袋が前から誘ってたんだよ。
誤解しないで欲しいけど、結花がウチに来るのは俺と一緒に居たいからとかじゃない。お袋に会いに来てるんだ。家族が恋しいんだよ。ただ、それだけだから。
ごめんな?七綱…。明日は絶対に行くから。ちゃんと話そう?
それじゃ、おやすみ “

「里久…」
葦原は僕の事をこんなにも心配してくれている。気遣ってくれている。
僕が工藤さんのことで不安がっているのをちゃんと分かってくれている。だからこそ、黙っていたのだ。
僕の性格を理解してくれているからこそ、こういう形で気遣ってくれたのだろう。
「ありがとう…、里久…」
呟いて、僕は携帯を胸に抱いた。
愛されているのだと思った。
嬉しくて、涙が出た。
でも、だからって、このまま葦原に甘え続けることは出来ないのだ。
今の僕は、ただ葦原にすがり付いているだけ。
葦原の後ろに隠れて守られて、そして何時かは彼が自分の下から去ってしまうのではないかとビクビクしているだけだ。
僕は葦原に何もして上げられない。
与えられるだけで、何も返せない。
そして、僕の所為で、葦原はこの先も持たなくてもいい秘密を持ち続けなければならない。スターになるかも知れない葦原にとって、僕の存在はきっと後ろ暗いものになるだろう。
そう思うだけで、僕の胸は張り裂けそうだった。
葦原と工藤結花の関係は、僕の懸念していたようなものではないのかも知れない。
いや、工藤さんに惹かれている部分はあるのかも知れない。でも、きっと葦原は、それでも僕を選んでくれようとしているのだと思う。
そのことが、死んでもいいほど嬉しかった。
でも、僕はやっと気付いたのだ。
このままでは、いけない。葦原の為に、僕はもっと変わらなければ。
そうでなければ、僕はきっといつか葦原の重荷になってしまう。
それだけは、絶対に嫌だ。

絶対に…。

絶対に嫌だった。



教室に入ると、珍しく葦原はもう来ていた。
僕の顔を見ると、何か言いたそうな表情を見せたが、僕はフイッと目を逸らしてしまった。
今夜、葦原は家に来てくれると言っていたが、僕は断るつもりだった。
母ときちんと話して、色々と決めてから葦原と会うつもりだった。
「きーたのっ。おはよ」
後ろから僕の背中をぽんと叩き、野々宮さんが声を掛けてきた。
「あ、おはよ…。昨日はありがと」
僕が答えると、野々宮さんは笑みを見せて頷いた。
「ううん。また、おいでよね?」
「ありがと…。あ、野々宮さんも、1度遊びに来てよ。もうすぐ…」
そこまで言って僕は黙った。
周りのみんなには、まだ知られたくなかったのだ。
「北野…」
暗い顔になった野々宮さんを見て、僕は慌てて笑って見せた。
「あ、ううん。そういうことじゃなくても、来て欲しかったんだ」
「…うん。ありがとね」
また、ぽんと僕の背中を叩き、野々宮さんは自分の席へ歩いて行った。
視線を感じてふと見ると、葦原が不機嫌そうに僕を見ていた。
きっと、葦原を無視したくせに、野々宮さんと話していたのが気に入らなかったのだろう。
僕は誰にも気付かれないように、ほんの少しだけ唇の両端を持ち上げると、また葦原から視線を逸らして前を向いた。
葦原は嫉妬してくれたのだろうか。
でも、僕が葦原以外の誰かを見るなんてあり得ない。
これから僕にどんな出会いが訪れようとも、きっと僕が葦原以上に好きになる相手はいないだろう。
先生が来るまで、まだ少し時間があった。
僕はポケットから携帯電話を出すと、机の陰でメールを打ち始めた。
相手は葦原で、内容は今夜のことだった。
今夜は母と出掛けることになったので都合が悪くなったと嘘をついた。それから、暫くは母が昼勤で帰りが早いので、会えないと思うと打った。
送信した後で、僕はドキドキしながら携帯を握り締めて待った。
葦原に、僕の嘘がばれるのではないかと心配だった。そして、もしかして彼が怒ってしまったらどうしようと思った。
手の中でマナーモードにしてあった携帯が震え、僕はすぐに開いて中を見た。

“分かった。
もしかして、まだ怒ってるのか?俺に会いたくないって思ってるんだとしたら、すげえ悲しいよ。
でも、きっと七綱を傷つけたんだって分かってるから、その方がもっと悲しい。
ごめんな?
本当は、今すぐ抱きしめに行きたいくらいなんだ。
ちゃんと、話聞いてもらえるまで待つよ“
違う。怒ってるんじゃない。
今すぐ、そう言いに行きたかった。
行って、葦原に抱きしめてもらいたかった。
そんな衝動に駆られ、僕が立ち上がろうとした時、後ろの扉から工藤結花が入って来た。
ハッとして、僕は我に返った。
教室で、僕が葦原に近付くなんて、してはいけないことだ。
それに気付き、僕は椅子に座り直した。

“怒ってなんかないよ。昨日のメール読んで、ちゃんと分かったから。ホントだよ。
僕こそ、ごめんね。心配させて…。
僕だって凄く会いたい。会いたいよ。
ホントにごめんなさい“

心を込めて、僕はメールを打った。
返信はすぐには来なかった。
葦原は友達や、工藤結花と話を始めていたからだ。
もどかしい思いをしない訳ではなかった。
直接話が出来たら、もっと早く、僕達はお互いの気持ちを知ることが出来るだろう。そしたら、ジリジリとメールを待ったりすることもない。
でも、僕達はこうして気持ちを伝えるしかない。
母が北海道へ行って帰るまで、僕は葦原からの電話には出なかった。
出れば、きっと泣いてしまうと分かっていたからだった。
その度に、メールを打ち、電話に出なかったことについては言い訳をしていたが、葦原は勿論、不審に思っていただろう。
母は父と話し合い、僕の冬休みに合わせて引越しを決めてきた。
家族で住むとなると会社の社宅が借りられるらしく、家賃も安く済むと喜んでいた。そして、此方の家は不動産屋に頼んで貸し出そうかということになったらしい。
「え…?ここ、貸しちゃうの?」
まさか、そんな事まで決まってしまったのかと僕は驚いた。そして、何だか無性に寂しくなってしまったのだ。
「うん…。七綱が何処の学校へ行くか分からないでしょ?だったら、思い切って貸しちゃって、七綱は学校の近くに下宿を探した方がいいと思うの。何年契約、って決めて貸しておけば、帰って来た時にはここに戻れるし」
「そうなんだ…。分かった…」
「あ、それとね、学校のことだけど…」
「あ、うん。」
母の言葉に、胸がドキンと鳴った。
とうとう、僕は転校しなければならないのだ。
「父さんの社宅からバスで10分ぐらいのところに普通高校があるんですって。レベル的には今の学校と余り変わらないみたいだから大丈夫だろうって話だったわ」
「そう…、良かった」
そう言ったが、言葉に力が入らなかった。
すぐに気付いたのだろう。母が心配そうな顔で僕の手を握った。
「ごめんね?七綱…。転校するのが嫌なのは良く分かってるんだ。誰だって不慣れな所へ通うのは嫌だけど、特に七綱の性格では辛いと思う。でも、今度だけはお父さんの気持ちを分かってあげてね?」
「…うん。分かってる。大丈夫だよ、僕、ちゃんと分かってるから…」
もう、何も言えなかった。
ここに残りたいとは、もう、言えなくなってしまっていた。
部屋に戻ると、僕は携帯電話を開いた。
僕が電話に出ない所為で、数日前から葦原は電話をくれなくなっていた。
恐々電話すると、今度は葦原の携帯が留守電になっていた。
ハーッと溜め息をつき、僕はベッドに横になった。
勿論、葦原は僕に腹を立てているだろう。
あんなに気遣ってもらったのに、僕は彼を無視するような真似をしてしまったのだ。怒って当たり前だと思う。
学校では前から話をすることも無かったが、以前は目が合えば、みんなに気付かれないように笑みを投げてくれることもあった。
でも今は、目が合うことさえない。
このまま、ちゃんと話も出来ずに、僕は彼と別れなければならないのだろうか。
胸に浮かんだその思いを、僕は振り払うようにして首を振った。
それだけは駄目だ。
野々宮さんにも言われたように、僕は葦原に全てを話さなければならない。
僕の家族の事情も、そして僕の想いも…。
立ち上がると、僕はジャケットを掴んで部屋を出た。



母にはコンビニへ行くと言い、僕は自転車を蹴って葦原の家まで走った。
着いて見上げると、葦原の部屋の窓に灯りは無かった。
がっかりしたが、帰る気は無かった。
自転車を塀に立てかけると、僕はその脇に立って自分の背中も塀に預けた。
ここで、葦原が戻るまで何時まででも待とうと思った。
今夜は葦原と話が出来るまで家には帰らない。
きっともう、ほんの少しも後回しにしてはいけない。そうでなければ、このまま拗れて、葦原と分かり合えずに終わるような気がした。
夜になるともう、かなり寒い。手が悴んだが息を吹きかけて我慢した。
気がついて携帯を出し、葦原の家電話の方に掛けてみたが、やはり留守だということだった。
携帯を切ってポケットへ仕舞うと、僕はもう1度手に息を吹きかけて葦原の部屋の窓を見上げた。
携帯をチェックしたなら、僕からの着信に気づかない訳は無い。葦原が返事をくれないのは、まだ携帯を見ている時間が無いか、見ていても返事をしてくれる時間が無いかだろうか。
まさか、分かっていながら返事をくれない訳ではないだろうと思う。
僕の行為に腹を立てていても、葦原は僕を無視するようにことはしない。そんな人じゃないからこそ、僕は好きで堪らないのだ。
時間が経ち、段々と僕の身体も冷えてきた。
立っているのが辛くなって、そこへしゃがみ込むと、僕は膝を抱えて少しでも暖を取ろうとした。
膝の中に腕を抱え込み悴んだ手を擦る。
その内に、ポケットの中で携帯の着信音が聞こえた。
慌てて出して開こうとしたが、手が言う事を利かなくて少し慌てた。ディスプレイの葦原の名前を見ると、余計に気が逸って手が震えた。
「も、もしもしっ…?」
「七綱?ごめん…、今、携帯チェックして気がついたんだ。電話くれたんだ?」
「う、うん。ずっと電話しなくて、ごめんなさい…」
「いいよ。きっと、話せるようになったら話してくれるって思ってたから…。もう、大丈夫なのか?」
「…うん。ごめんね?ちゃんと、話したいんだ」
「うん…。あ、ちょっと待って。もうすぐ、ウチに着くから。また掛け直す」
「うん…」
僕が電話を切ってすぐ、向こうからワンボックスカーが走って来て、葦原の家の前に停まった。
どうやら、今日は仕事の打ち合わせででもあったのだろうか、友達のとは思えない車から葦原が降りてきた。
僕が立ち上がって近寄ろうとすると、中から続いて工藤結花が降りてきた。
車は工藤結花のマネージャーのものだったらしい。
( 今夜も一緒だったんだ…)
そう思うと胸が苦しかった。
近付こうとした足が自然と止まる。
さよならを言って家に入ろうとした葦原を引き止め、工藤結花がその腕を絡め取った。
ドキン、と胸が鳴った。
思わず手で口を覆い、僕は息を飲んで2人を見つめた。
「何で駄目なの?」
工藤結花が詰るように葦原に言った。
「ごめん。…兎に角、俺は無理だ。ごめんな」
「だけど…」
「結花…」
工藤結花の肩に手を伸ばした葦原は、僕の視線を感じたのか、フッと目を逸らしてこちらを見た。
「な…、七綱…ッ」
すぐには言葉が出なかった。
ここで待っていた事を、僕は後悔していた。
きっと、見てはいけなかったのだと思った。
「七綱ッ…」
葦原が走り寄って、凍えかけていた僕の身体を捕まえた。
「まさか、ずっとここで待ってたのか?」
「ご、ごめんなさ…。あ、会って、話したくて…」
「馬鹿ッ。何で言わないんだ?こんな…冷たくなってッ」
暖めようとして、葦原の手が忙しく僕の身体を擦り始めた。
僕はその手から逃れようとして後ろに下がると、きっと、ぎこちなく見えるだろう笑みを必死で浮かべた。
「へ、平気…。ご、ごめんね?黙ってこんなことして。あの、でも、もう僕、か、帰るから…。あ、後で、後でまた…」
「何言ってんだっ。このまま帰せる訳無いだろ?ウチに入れよ。何か温かいもんでも飲んで、温まらないと…」
「い、いいよっ…」
不審そうにこちらを見ている工藤さんの顔が、葦原の陰から僕の目に入った。きっと、何事かと思っているのだろう。
まだ転校して来て間もない彼女が、1番目立たない僕の存在を知っている筈もないし、勿論僕が葦原と付き合っているなんて夢にも思わないだろう。
こんな遅くに、家の外で葦原を待っているなんて、彼女にしたら、僕なんか不審者にしか見えない筈だった。
「あ、後で…、また後で、里久の時間がある時に話すから…。い、今はいい…。なんか、話があったんでしょ?ごめんなさい…、邪魔して…」
「七綱ッ…」
葦原の両手が痛いほど僕の腕を掴んだ。
「止めろよ、もう。そういうの、止せよ…ッ」
「…里久…」
驚いて見上げると、葦原は辛そうな目をしていた。
「1番大事だって、そう言ってるだろ?七綱が話したいって言ってるのに、何で俺がそれを後回しに出来るなんて思うんだよ?いつだって、七綱が1番大事だ。そう、何度も言ってるだろ?」
掴まれたままの腕を僅かに上げると、僕は葦原のジャケットの裾を掴んだ。
「…ホント……?」
葦原の心は、本当に揺らいではいないのだろうか。僕を選んで、後悔しないのだろうか。
じっと見つめると、葦原の瞳も動かずに僕を見た。
「信じられない…?」
「…信じたい…」
「七綱…」
腕を掴んでいた葦原の手が僕から離れて下に落ちた。
「待ってて?」
僕が頷くと、葦原は僕に背を向けて工藤結花の方へ歩いて行った。
「ごめん。今は話してる時間が無いんだ。また、後でちゃんと話すから、今日は帰ってくれないか?」
工藤結花は葦原の言葉に素直に頷いた。でも、僕の方を不審げに見てから車に戻った。
「七綱…」
僕の下へ戻って来て、葦原は僕の身体を包むようにして背中に手を当てた。
「家に入ろう?身体を温めてから、話を聞くから」
「いいの…?」
「当たり前だろ?七綱がここまで来るなんて、余程大事な話なんだろ?ほら、行こう」
「うん…。ありがと…」
僕の事を無碍に出来なかったから、葦原は工藤結花を帰したのかも知れない。
でも、それでも僕は、僕を選んでくれたことが嬉しかった。
「里久…?」
工藤結花の車が行ってしまうのを見ながら、僕は葦原の服を掴んだ。
「うん?」
「ありがと…」
僕がもう1度言うと、葦原は足を止めた。
そして、僕の身体をギュッと胸に抱いた。
「七綱……」
暖かい葦原の胸に顔を埋め、僕はどんどん自分の中から自信が失われていくのを感じていた。