この空の果てまで
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部屋に入ると、葦原はすぐに僕をベッドの上に押し倒した。
何か焦っているみたいに、性急に何度もキスをして僕のパジャマを脱がせようとした。
「り、里久…?」
「うん?嫌なの?」
そう訊きながらも葦原は手を止めなかった。
「ち、違うけど…。でも…」
こんなに急かされた事なんか1度も無かっただけに、僕は驚き半分で、それから少し怖くなっていたのだ。
「なら、いい?凄くしたいんだ」
「う、うん…」
嫌な訳はない。僕だって、ずっと葦原に抱きしめてもらいたかったのだ。
でも、こんな風にまるでセックスだけが目的で僕に会いに来たみたいな葦原は初めてで、本当に僕は少し怖かった。
「あっ…」
僕のズボンと下着を半分だけずり下ろすと、すぐに葦原の指がそこに届いた。
いつもなら、ゆっくりとキスをして、それから僕の身体を泣き出すほどに感じさせてくれるのに、今日の葦原はまるで自分のことしか考えていないみたいだった。
うつ伏せのまま枕を抱え、僕はただ、されるままにじっとしていた。
性急に解そうとする葦原の指が痛みを与えていたが、我慢して目を瞑ると力を抜こうと努力した。
何があったのか知らないけど、僕に出来ることならなんでもする。だから、葦原に逆らうつもりなんか無かった。
「いッ……」
指が抜かれるとすぐ、葦原自身が僕の中に入ろうとした。
まだ、身体の準備も、そして気持ちの準備も出来ていなかった僕は、思わずその痛みに声を上げてしまった。
「ごめん…、我慢して?」
何時もなら僕の反応を気遣ってくれる葦原だったのに、今日は本当にまるで別人のようだった。
僕が痛がっているのを知っていながら、力を緩めてもくれない。
でも僕は葦原の言葉に頷くと、閉じようとする身体を無理に開いた。
ぐっ、ぐっと、上から押し付けるようにして葦原が無理やり入ってくる。そしてそのまま、激しく動き始めた。
(痛い……)
何時もの蕩けるような快感は微塵も無かった。
ただ痛くて、涙が滲む。
それでも僕は声を押さえ込んで葦原がするのに任せた。
「くっ…、七綱…ッ、七綱ッ……」
何でこんなに苦しげに僕の名前を呼ぶのだろう。
嫌な予感が、波紋のように僕の心に広がっていった。
痛みだけではなく、恐怖で涙が滲む。
葦原は一体、何を考えているのだろうか。
「うっ…」
一瞬、僕の奥で葦原の動きが止まった。
そしてまた、ゆるゆると動く。中に吐精しているのを感じたが、僕は動かなかった。
「七綱…?」
僕の中からゆっくりと出て行った後で、葦原は僕の顔を覗き込んだ。
「ごめん…。痛かったな…?ごめん…」
首を振ろうとすると、葦原の唇が近付いて僕の顔から涙を吸い取った。
「里久…」
両腕を伸ばして首に回すと、葦原は僅かに頷いて僕の唇にキスを落とした。
「もっと、いい…?今度はちゃんとゆっくりするから…」
その言葉を聞いて僕は少し怯えながら葦原の目を見た。
なんだかおかしい。
本当にこんな葦原は初めてだった。
何を焦っているのか分からないが、まるで何かに追い立てられているように僕を抱きたがっている。きっと、何かあったに違いなかった。
僕が頷くのも待たずに、葦原は僕のパジャマのズボンと下着を脚から抜き取った。そして、ズッとにじり寄って身体を近づけると、僕の両膝の後ろに手を掛けた。
「開いて…」
言葉と同時に手が僕の脚を開かせた。
ごめん、と謝っていながら葦原はまた強引に僕の身体に入ってこようとした。
「ぅくっ…。あっ…」
思わず押し返そうとした僕の両手を掴み、葦原はズッ、ズッ、と身体を押し込んできた。
痛みにまた涙が滲む。
すると、それに気付いたのか、葦原が僕に口付けた。
「七綱…」
僕の身体を乱暴に揺すりながら、葦原はキスの合間に言った。
「七綱…、好きだよ…。好きだ…」
それはまるで、自分に言い聞かせているかのように僕には聞こえた。
自分の心を確かめるように。
いや、まるで、偽りを無理やり覚えこませるかのように。
「寒い…?」
僕の身体を熱いタオルで拭いてくれながら葦原は訊いた。
僕が黙って首を振って見上げると、葦原は何度目か分からないキスを僕の唇に落とした。
「里久……、行っちゃうの……?」
「え…?」
僕の言葉に、葦原は驚いて目を見張った。
「これが…、最後なの…?」
言った途端に、僕の目から涙が溢れて目尻を伝い落ちて行った。
「な、何言ってるんだ…ッ」
驚いて持っていたタオルを離すと、葦原は僕を抱き起こして抱きしめた。
「最後なもんか。ずっと傍に居るよっ」
「ほんと…?ほんと……?」
葦原にしがみ付き、僕は何度も訊いた。葦原はその度に頷いてくれた。
「ホントだよ。嘘なんかつかない。ずっと…、七綱の傍に居る…」
僕の髪を撫でて、葦原はそう言ってくれた。
でも、暫くすると僕の身体を起こして目を見つめながら言った。
「ただ…、事情が変わって、またCMの仕事をしなくちゃならなくなったんだ。雑誌の取材なんかも入って来て、暫くは動きが取れなくなりそうなんだ。バイトも辞めることになったし、学校も少しは休むことになるかも知れない」
聞いている内に、僕の目にはまた涙が溢れた。
怖い……。
きっと葦原は行ってしまう。
そう思えて、怖くて堪らなかった。
「七綱っ…。泣くなよ…。な?暫くは忙しくなるけど、ずっと仕事する気は無いし、みんなが噂してたみたいに転校なんかしない。ホントだよ。暫くの間だけだから、寂しいかも知れないけど、ホントに暫くの間だけなんだ」
「うん…っ、うん…」
頷いたが、涙は止まらなかった。
葦原が嘘を言っているとは思っていない。でも、全部を話してくれていないような気がして、それが怖かったのだ。
「七綱…」
葦原の腕が、また僕をきつく抱きしめた。
多分、僕の不安を宥めてくれようとしたのだろう。でも、どんなに力強く抱きしめてもらっても、僕の不安を拭い去ることは出来なかった。
明らかに葦原は、何時もと違う。
そして、何かを押し隠そうとして必死になっているように見えたのだ。
「学校で会えない日も、毎日ちゃんとメールするよ。電話出来る時は電話するし、時間が出来たらちゃんと会いに来る」
「うん…、待ってる。ちゃんと信じて待ってるから、大丈夫だよ。里久は僕のことなんか気にしないで頑張って…?」
「七綱…っ」
力強い葦原の腕。
いつもなら、抱きしめられただけでどんな不安も吹き飛んでしまう。でも、今日ばかりは駄目だった。
「大丈夫。少しの間は寂しい思いをさせるけど、でもすぐにまた元通りだよ。約束するから…。約束する」
葦原の言葉に、僕は彼にしがみついたまま何度も頷いた。
僕にもう1度キスをして、葦原は帰って行った。
玄関の外に出て見送りたかったけど、もしかして誰かに見られたらと思うと出来なかった。
これからは、益々気をつけなければならなくなるだろう。
僕の存在を知られたら、葦原の立場が悪くなる。だから、僕が不用意に彼に近づくのは良くないのだ。
芸能界入りするつもりは無いと葦原は言っていたが、人気が出れば出るほど、そういう訳にも行かなくなるのだと思う。
だから、今度だって1度きりと言っていたCM出演が、もう1度になってしまったのだろう。
そうやって、本人の意思だけではどうにもならなくなることだってあるのだと思う。
部屋の窓から、帰っていく葦原を僕は見えなくなるまで見送った。
本当にこれが最後かも知れない。
そう思うと、駄目だとは思ってもまた涙が出た。
葦原の心の変化を、僕は確かに感じ取ってしまった。
幾ら大丈夫と言い聞かせても、自分の感覚を誤魔化すことは出来なかった。
ただ何かを忘れたがっているように、そして、何かから逃げたがっているように僕を抱いた。それは、僕を愛しんでくれるいつもの葦原ではなかった。
明日は学校に来るのか、訊きそびれてしまった。
明日になって、葦原が学校へ来てその顔を見るまで、僕の心は少しも休まらないだろう。
これから毎日、いつ最後になるのか、それに怯えて暮らすことになるのだ。
夢は何時までも続かない
少し前まで、僕はいつもそんなことを思っていた。
だから、葦原はいつか僕から去るだろうと。
でも、僕は少しずつ、葦原と自分の関係に確かなものを感じるようになった。そして、もしかしたら、ずっとずっと一緒に居られるのではないかと思うようになっていたのだ。
でもやっぱり、それは間違いだったのかも知れない。
窓の外に、もう葦原の姿は見えなかった。
でも、暗闇の中に、僕は何時までも彼の姿を探そうとして、目を離す事が出来なかった。
翌日、葦原は学校に来た。
だが、午後になると仕事の為に早退してしまった。
彼が帰ると、教室の中はまた噂で騒がしくなった。
転校はしないと葦原は言ったが、もしかして中退して芸能界入りするのではないかと言う者も出てきていた。
「また無責任なこと言ってるよ。葦原はまだ、何にも決めてないってそう言ってるのに…」
呆れたような口調で、騒ぐクラスメイト達を見て野々宮さんが言った。
それから、僕の方へ顔を近づけると、眉間に皺を寄せながら小声になって言った。
「昨夜、葦原と話出来たの…?」
「…うん。やっぱり、もう1本CMに出ることになったんだって…」
「そうなんだ。やっぱりねえ…」
ハーッと溜め息をつくと、野々宮さんは天井を見上げた。
「放映前からあんなに人気が出ちゃっちゃ、そうなるのは必須だよね。…はぁぁ、でもこうなるとさ、マジで学校の方、ヤバくなってくるんじゃないのかなぁ」
「で、でも…、転校なんかしないってはっきり言ってたよ。ずっと仕事する気は無いって。暫くの間だけだって…」
「北野…」
肩を掴まれて僕はハッとすると野々宮さんを見た。
すると、彼女は僕の顔を心配そうに見つめていた。
「大丈夫…?顔が真っ青だよ」
野々宮さんに話しながら、僕は必死で自分に言い聞かせていたらしい。その様子に気付き、彼女は僕のことを心配してくれたのだ。
「だ、大丈夫…。ごめん…」
「ねえ北野、何か心配事があるなら言いなよ。言った方が気が楽になるから…」
「ありがと…。でも、多分、僕の取り越し苦労なんだ。だから、大丈夫。ごめんね?心配させて…」
何とか笑って見せると、野々宮さんは躊躇いがちにだったが頷いてくれた。
「なんかあったら、遠慮しないで言ってよね?力になれるかどうかは怪しいけど、ホントに話すだけでも気が楽になることもあるから」
「うん、ありがとう…。ほんとにありがとう、野々宮さん」
彼女が居てくれるお陰で、どんなに気持ちが楽か知れなかった。僕は、本当に心から彼女の存在に感謝していた。
騒ぎはまだ収まっていない。
それだけ、葦原の存在がみんなにとってとても大きいということだった。
主人不在の机を、僕は遠くから眺めた。
あの席に、勿論葦原は戻ってくる。
だけど、本当に僕の下へ彼は帰って来てくれるのだろうか。
そう思うと、ここが教室だということも忘れて泣き出しそうだった。
だがその時、昼休み終了のチャイムが鳴って、僕は救われた。
なんとか気持ちを切り替えることが出来、みんなの前で見っとも無く泣き出すことは無かった。
こんなことでは駄目だと分かっている。
一々動揺して、葦原のことで頭が一杯になって、他の事が何も手につかない。そして、くよくよと悩むばかりではいけないのだと分かっている。
結局僕は、葦原に片想いしていた頃からほんの少しだって成長してはいないのだ。
まだ何も決まっていない。葦原はさよならを言った訳じゃない。
待つことしか出来ないけど、でも、葦原が結論を出す前から疑ってはいけないのだと思う。
待つと約束したのだ。
葦原だって、絶対に約束を守ってくれる。
それがどんな結果になろうと、きっとちゃんと、僕に言ってくれる筈だった。
それから2日間、葦原は学校に来なかった。
でも、約束してくれた通り、毎晩ちゃんとメールをくれた。
CM撮影の打ち合わせで、拘束されて時間が無いこと。むこうも、葦原が学生だということを考慮して、なるべく短時間で全てを終わらせようとしてくれているらしい。その所為で、無駄な時間が無いのだという。
撮影準備に入るまで、暫く時間が掛かるので明日には学校に来られるということだった。
“そしたら電話するよ。ううん、会いに行くよ”
「里久…」
思わず、僕は携帯電話を抱きしめた。
ちゃんと帰ってきてくれる。約束通り、会いに来てくれる。
今から待ち遠しくて、眠れなくなりそうだった。
「大丈夫…。ね?ジンジャー、ペッパー。大丈夫だよね…?」
問い掛けても2匹の金魚はひらひらと楽しげに泳ぐばかりで、何も答えてはくれなかった。でも、葦原がプレゼントしてくれた金魚たちを見るだけで、僕の心は幾らか安らいでいくようだった。
明日、学校に来て、そしたら暫くは傍に居られると葦原は言ってくれた。
「会えるんだ…」
そう思っただけで、僕の胸は弾んだ。
思い過ごしだったらいい。全てが僕の取り越し苦労だったらいい。
葦原の気持ちは変わらない。今はただ、忙しいだけなんだ。
環境が急に変わってしまったし、時間もなくなったしで、葦原自身も戸惑っているのだ。だから、この前はあんなに焦っていたのかも知れない。
いや、きっとそうなのだ。
葦原から言葉を貰えただけで、僕の気持ちはすぐに浮上する。自分でも、なんて単純なんだろうと可笑しくなってしまった。
でも、仕方ない。
僕にとって、葦原は誰よりも特別なのだから。
「ジンジャー、ペッパー、明日、里久に会えるよ。嬉しいね?」
ちょん、ちょんと水槽を突くと、2匹の金魚はパクパクと口を動かしながら僕の指に寄って来た。
その姿を見て、僕は思わず口元に笑みを浮かべた。