この空の果てまで
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途中のコンビニでお菓子と飲み物を買い、僕は野々宮さんと一緒に彼女の家へ行った。
野々宮さんの部屋は相変わらずセンス良く飾られていて、彼女の個性が良く出ていた。
「座りなよ。相変わらず散らかってるけどさ」
「ううん。そんなことないよ。あの写真、可愛いね」
「ありがと…」
テーブルの前に腰を下ろし、僕は持っていたコンビニの袋をその上に置いた。
中から飲み物とお菓子を取り出すと、野々宮さんはすぐにお菓子の袋を開けて真ん中へ置いた。
「食べよ?これ、今あたしハマってんの。美味しいよ」
「うん。いただきます…」
薦められたお菓子をひとつ取り、僕はそれを口の中へ入れた。
「ほんとだ、美味しいね」
「ね?」
嬉しそうに笑うと、野々宮さんもお菓子を手に取った。
「野々宮さん、ありがとう。ごめんね?いつも心配掛けて…」
僕がそう言うと、野々宮さんは急いでお菓子を飲み込んだ。
「何言ってんの。友達なんだから、心配するのは当たり前だよ。それに…、今回は北野じゃなくても、不安になるよね」
野々宮さんの声は、心から僕を心配してくれているのだと分かった。そして、やはり工藤結花の存在は彼女の目から見ても大きなものだったのだろう。
「里久は…、全部僕にちゃんと話してくれたんだ。だから、本当は何も気にする必要は無いんだ。僕が…、僕が不甲斐ないだけなんだよ。ちゃんと、自分にも2人の関係にも自信が持てれば、何も問題なんか無いって分かってるのに…」
本当に情けなかった。
葦原はちゃんと僕に言葉をくれた。工藤さんの転校のことだって、事前にちゃんと知らせて僕が不安がらないように気遣ってくれたのに…。
それなのに僕は、こうして不安を拭い切れない。それは全部、自分自身の問題なのだ。
「でも、工藤結花は間違いなく葦原を追って転校してきたんでしょ?そんなことされたら、誰だって少しぐらいは不安になって当たり前だよ。工藤結花は綺麗だし、スターだし…。そんな子が自分の彼氏の傍にずっとくっ付いてたら、あたしだってキリキリするもん」
口を尖らせた野々宮さんを見て、僕は思わず口元に笑みを浮かべた。
「うん…。でも、工藤さんの転校の理由は葦原の事だけじゃないんだ。彼女、前の学校に馴染めなくて登校拒否状態だったんだって」
「そうなの?へえ…。でも、あたしも今日さ、本物見てちょっとイメージ違うなって思ったんだ。何だかもの凄く緊張してるみたいだったし、怖がってるみたいにも見えた。葦原が来て、まるで、やっと息がつけたみたいに…」
そう言うと、野々宮さんは少し苦笑した。
「うん…。多分、工藤さんは里久のことを凄く頼りにしてるんだと思う。だからこそ、里久の居る学校に転校してきたんだよ」
「ふぅ…ん」
頷いて、野々宮さんはもうひとつお菓子を口に入れた。
「じゃあ、葦原は自分を頼って転校して来た工藤結花に対して責任を感じてるってことなのかな?それで北野は、工藤結花には葦原に対する恋愛感情は無いって思ってるの?」
訊かれて、僕はすぐに答えられなかった。
分からない。
と言うのが本音だ。
でも、心の中のこの不安は、僕が実は2人のことを疑っているのだと示していた。
「ほんとのこと、言う。あると…、思ってる。工藤さんは葦原のことが好きだと思う」
「そっか…」
何かを考えるような顔つきで野々宮さんはそう言うと、ボトルに差したストローを口に運んだ。
チュッと中身を吸い上げて飲み込むと、野々宮さんはそのまま黙ってしまった。
きっと、僕の気持ちを思い遣って何か言葉を探しているのだろうと思った。
そして、僕は彼女が慰めの言葉を見つける前に口を開いた。
「でも…、里久は何でもないって。里久は1人ぼっちの工藤さんを放っておけなかっただけなんだ」
そう。
多分、最初は、ただそれだけだったのだろう。
「葦原さ…」
口を開いた野々宮さんを僕が見ると、彼女はフッと笑みを浮かべた。
「もしかすると、工藤結花が北野と似てると思ったのかもね…」
「…え?僕と…?」
驚いて僕が聞き返すと、野々宮さんは頷いた。
「うん。ほら、北野もさ、引っ込み思案なところあるし、慣れない人と話したりするの苦手だし。工藤結花のそんなところを見てて、北野と重なってさ、放っておけなかったのかなぁ…って思ったんだ」
野々宮さんの言葉に、僕は驚くと同時に目が覚めるような気持ちになった。
もし、葦原が野々宮さんの言うような気持ちで工藤結花と接していたのだとしたら、僕は彼の行動に対して不安を感じる必要も無いのだと思う。
何処にいても、僕と似た人間が気になるというのは、葦原がいつも僕の事を考えていてくれるからなのだろう。
そう思うと、僕は嬉しくて堪らなかった。
「もし、里久がこのまま芸能界に入っても、僕は止めるつもりは無い。ううん…、僕に止める権利なんか無いし…。それでもし、里久と別れなきゃならなくなっても、それは仕方が無いと思ってる」
「北野…」
「だって…、里久には自分の思う通りに進んで欲しいんだ。僕がその妨げになるなんて、絶対に嫌…ッ」
ギュッと、野々宮さんが僕の肩を掴んだ。
その目に薄っすらと涙が浮いているのを見て、僕の鼻の奥がじわっと熱くなった。
「僕ね、転校するかも知れないんだ…」
「えっ…?」
野々宮さんの手が、僕の肩から離れた。
「何?急に…。転校って何処に?」
「うん…。僕の父さんが北海道に単身赴任してるって言ったでしょ?来年には帰ってくる予定だったんだけど、それが変わって、あと5年は帰れないって分かったんだ。だから、思い切って家族で引っ越そうかって…」
僕の話を聞いて、野々宮さんは首を振った。
「そんな…。北海道なんて、遠過ぎるよッ。北野、それ、葦原には言ったの?」
「ううん…、まだ…。来週、母さんが北海道へ行って、父さんと話してくるって。そしたら色々と決めてくるだろうから、それから…」
「そう…」
野々宮さんはそう言うと、また首を振った。
「でも、そんな…、北野が遠くへ行っちゃうなんて…。ね、北野だけ残る訳にはいかないの?家はこっちにあるんだし、不可能じゃないでしょ?」
彼女の言葉に、今度は僕が首を振った。
「僕が上の学校に進んだら、家族と一緒に住めるとは限らないだろ?両親は僕が高校生の間だけでも家族で住みたいって考えてるんだ。だから、引っ越すことにした。…それなのに、僕だけ残りたいっては言えないよ」
「そっか…」
言うと同時に、野々宮さんは大きく溜め息をついて後ろのベッドへ背中を預けた。
「でも、それ知ったら、葦原、なんて言うかなぁ…」
「…分からない…」
分からなくて、そして怖かった。
「北野…」
野々宮さんが身体を起こして僕の方へ近付いた。
「あんた、自分が転校するからって、そのまま葦原と別れてもいいとか思ってるんじゃないでしょうね?」
「僕は…」
野々宮さんが乗り出して、僕の両肩を掴んだ。
「そんなの駄目だよッ。葦原は絶対にあんたと別れるなんて言わないから。自分から身を引こうとか、変な事考えないで。いい?」
「野々宮さん…」
真剣な目でそう言ってくれた彼女に僕は感謝した。でも、僕が幾ら望んでも、現実は思う方向へ行くとは限らないのだ。
「僕は…、勿論別れたくなんかないよ。でも…、遠く離れてしまっても里久の気持ちを繋いでおけるなんて自信もないんだ…」
「北野…」
「だって…、傍に居る今だって、こんなに不安で堪らない。いつか、僕から里久の心を奪う相手が現れるんじゃないかって、いつも不安で…。里久を信じてない訳じゃないよ。でも…、絶対に彼を繋ぎ止めておく自信なんて、僕には少しもないんだ」
野々宮さんの両手が僕の肩から外れ、その代わりに、右手がチョップの形で僕の額を襲った。
勿論、軽くだったが、野々宮さんは怒った顔で僕の額に手刀を落とした。
「こら。何言ってんのよ。付き合う相手に不自由しない葦原がさ、北野を選んだんだよ?それは、誰よりも北野のことが好きだからでしょ?」
「野々宮さん…」
「自信持ちなよ。ちゃんと葦原に話して、これからのこと、相談しなよ。ちゃんと2人で話さなきゃ。…ね?」
僕の為に、一生懸命考えてくれている野々宮さんの気持ちが嬉しかった。
こんなに情けない僕の為に、真剣になってくれている彼女の友情が、堪らなく嬉しかった。
「ありがと…。野々宮さん」
僕が言うと、野々宮さんは笑いながら僕の頭を撫でた。
「こら、泣くな。男の癖に、泣き虫だなぁ、北野は…」
「う、うん…。ごめん…」
涙を拭きながら、僕も笑った。
今夜、葦原に電話して、そして何もかも話そう。
転校のことも、僕の気持ちも…。
そして僕は、葦原からちゃんと聞かなければいけない。
僕が戻るのを、待っていてくれるかどうか…。
ちゃんと聞かなければいけないのだ。
家に帰るバスの中で、僕は葦原にメールを打った。
大事な話があるから、時間があったら会いたいという内容だ。
すると、間も無く葦原から返事が来た。
“大事な話?なんだか怖いな…。今夜、行けると思うよ。少し遅くなってもいい?”
僕は、またすぐに返信を打った。
“勿論だよ。じゃあ、待ってるね。”
送信した後で、僕は携帯を胸に押し付けた。
転校の事を葦原にどう切り出そうか考えると、今から緊張してしまったのだ。
(里久…、何て言うかな…?)
行くな、と言ってくれるだろうか。
そう言われても、行かなければならないのは変えられない。でも、引き止めてももらえなかったらと思うと、胸が詰まるような気持ちがした。
(行きたくない…)
不意にその思いが、僕の中の全てを占めた。
(嫌だ。嫌だ、嫌だ、嫌だ……ッ)
離れたくない。
葦原の傍に居たい。
もう会えなくなるなんて、死んでしまった方がいい。
父と母には悪いが、やっぱり僕だけ残りたいと言ってしまおうかと思った。
(嫌…、やっぱり、嫌…。里久と離れるなんて、嫌だよッ…)
降りる筈のバス停に着いたが、僕はバスを降りなかった。
このまま乗っていれば、葦原の家のすぐ傍まで行ける。
兎に角、今すぐに彼の顔を見たくて、僕はそのままバスに揺られた。
居るかどうかも分からないのに、僕は葦原の家の近くでバスを降りると、彼の家へ向かった。
“遅くなる”と言っていたのだから、多分、何処かへ出掛けているのだろう。行っても留守だろうとは思ったが、それでも一応確かめてみようと思った。
葦原の家へ行くのは、これで2度目だった。
1度、家族の留守に、泊まりに行った。葦原が怪我をして身の回りの事をするのに不自由していたからだ。
でも、呼ばれもしないのにいきなり訪ねて行ったことなど、勿論1度も無かった。
家の窓には殆ど全部に灯りがついていた。
葦原は留守でも家には家族が居るのだろう。
門は開いていて、そこを通ると僕は玄関の前に立った。
“居ない”と言われたら、すぐに帰ろうと思った。
緊張して、1度大きく深呼吸をすると、僕は少し震える指でチャイムを押した。
暫くすると、中から女性の声で返事があり、ドアが開けられた。
「あら…?」
出て来たのは葦原のお母さんらしかった。僕の母よりは少し年上に見えたが、綺麗な人だった。
「こ…、こんばんはッ…」
僕が頭を下げると、お母さんも軽く頭を下げた。
「こんばんは。里久の学校のお友達?」
僕の制服を見てすぐにそう思ったのだろう、お母さんは笑顔でそう訊いてきた。
「あ、はい…。同じクラスの北野です。はじめまして…ッ」
もう1度頭を下げ、僕は訊いた。
「あの…、里久くんは…?」
「あぁ…、ええ、居ることは居るんだけどね。ちょっと今、来客中で…」
言い辛そうな口調で、お母さんは後ろを振り返った。
その時、僕は気付いた。
玄関に揃えられた、女の子の靴。それは、僕の学校の指定靴だった。
(まさか…)
「工藤…、結花さん…?」
靴を見つめながら僕が言うと、お母さんは困った顔でまた後ろを振り返った。
「結花さんが来てること、内緒にしてね?彼女、今は親元を離れて1人暮らしだっていうんで、今日はうちで晩御飯を食べていくことになったの。転校したばかりで疲れてるでしょうしね。でもほら、色々と煩いから…」
葦原と、それに工藤結花の追っかけもいるだろうし、それからお母さんはマスコミのことも気にして言ったのだろう。
僕は頷くと、顔を上げた。
「はい…。誰にも言いません。それじゃ、僕、帰ります。失礼しました」
「え?あの、何か里久に用があったんでしょ?今、呼ぶから待っててちょうだい」
「いいえっ。いいんです。後で、携帯に電話するし、近くまで来たから寄っただけなんで…」
「そう?ごめんなさいね。追い返すみたいで…」
気にして、お母さんは済まなそうな顔でそう言ってくれた。
「いえ…、それじゃまた」
頭を下げると、僕は葦原の家の玄関を出た。
“それだけ”
そう、葦原は言った。
でも、お母さんの様子から、工藤結花が今日初めて芦原家に来たのではないことが、僕には分かった。
今までにも何度か、彼女は芦原家を訪れ、そして家族と一緒にご飯を食べたりしているのだろう。
きっと、家族ぐるみの付き合いなのだ。
それに気付くと、僕の心に寂しさが押し寄せた。
工藤結花が葦原の家に居たこともショックだった。
葦原がその事を僕に言わなかったこともショックだった。
でも、一番辛かったのは、友達以外の存在として僕が葦原の家族に接することが出来ないという事だった。
葦原の家族に紹介されたことが無いのは、彼の所為ではない。
何度も家に来るように誘ってくれていたのに、僕が断り続けていたからだ。
でも、例え紹介されていたとしても、それは単に友達としてだろう。
それ以上の関係なのだとは口が裂けても言えない。
そんな存在である僕は、やがて葦原にとって厄介なものになっていくような気がした。
それに気付いてしまったことが、僕には1番辛かったのだ。
いつの間にかバス停を通り過ぎていたが、僕は歩き続けた。
すると、ポケットの中で携帯の着信音が聞こえ、僕は立ち止まって携帯を出した。
「里久…」
ディスプレイに葦原の名前が見えた。
ボタンを押して耳に当てると、すぐに葦原の声が聞こえた。
「七綱ッ…、家に来たんだって?今、何処だ?」
「ごめんね、里久…。急に行ったりして…。ごめんなさい」
「馬鹿だな、そんなのいいよ。前から来いって言ってたろ?俺の方こそごめん、折角来てくれたのに…」
「ううん…。里久の都合も考えなくて…。それに、今夜来てくれるって言ってたんだから、素直に待ってれば良かったんだ。ほんとに、ごめんなさい…」
「七綱…。だって、話したいことがあったんだろ?だから、待ち切れなくて家にまで来たんだろ?今、何処に居る?すぐに追い掛けるから、そこで待ってて?」
工藤結花はまだ家に居る筈だった。
それなのに、彼女を放っても、葦原は僕を追い掛けてくれると言った。
嬉しくて、僕は鼻の奥が熱くなるのを感じた。
「いいよ。もう、バスに乗っちゃった…。それから、話も急ぐ訳じゃないんだ。ごめんね?今日じゃなくてもいいから…。いつでもいいから…。里久が忙しくない時でいいよ」
声が震えそうになるのを堪えて、僕は葦原に嘘をついた。
「何言ってるんだよ。七綱が家に来るなんて余程大事な話なんだろ?俺、遅くなっても、今夜絶対に行くから…」
「いいよっ。…いいんだ。ただ…、急に顔が見たくなっただけ…。もう、声聞けたから大丈夫。明日、学校でね…?」
“七綱”と、葦原の呼ぶ声が聞こえたが、僕は電話を切ってしまった。
その途端、ツッと涙が頬を伝った。
我慢も限界だった。
何故なら、僕は今、葦原との別れを現実として受け止めようとしていたのだ。