この空の果てまで


-3-

翌日、僕は教室へ行くと何度も何度も入り口を見て、葦原が姿を見せるのを待った。
だが、葦原は中々現れず、僕は今日も休みなのだろうかと心配になってきた。
でも、HRが始まるギリギリになって葦原は教室へ飛び込んで来た。
僕が振り返ると、葦原は一瞬僕の顔を見て笑みを浮かべてくれた。
ホッとして、僕はみんなと一緒に葦原が急いで席に着くのを目で追った。
みんなに声を掛けられ、葦原はうんうん頷きながら席に着いた。それと同時に先生が前の扉から入って来た。
ザワザワしていた教室が幾らか静かになり、みんなが前を向いた。
休み時間の度に、相変わらず葦原の周りには友達が群がっていた。僕は初めから学校では近付くつもりは無かったので、時折、遠くから眺めるだけだった。
今日、葦原は家に来てくれると言っていた。その時間が待ち遠しくて、僕は今からそわそわしていた。
お昼休みにメールが届き、葦原は8時には行けるからと言ってくれた。
学校では傍へ行けないけど、家で待っていれば葦原が来てくれる。2人っきりの時間を過ごすことが出来る。
そう思うと嬉しくて堪らなかった。
学校が終わると、僕は急いで家に帰った。
葦原が来るまでには時間があったが、もう1度、部屋を掃除しておこうと思ったのだ。
今日は夜勤なので、家に帰ると母はまだ家に居た。
誰かと電話中らしく、僕が居間に入ると携帯を持ったまま振り返って、“ただいま”を言った僕に頷いた。
僕はそのまま居間を出て2階へ上がると、鞄を置いて服を着替えた。
何だか、さっきの母の表情がちょっと気になったが、葦原に会えることが嬉しくて僕はすぐに忘れてしまった。
部屋を掃除してから降りると、母はもう台所に立って夕食の支度をしていた。夜勤の日は何時も早目に支度をして、そして仕事へ出かけるのだ。
「手伝う?」
僕が言うと、母は頷いて持っていた菜箸を渡した。
僕に炒め物を任せ、母は包丁を取って野菜を刻み始めた。
「七綱、母さんね、来週、父さんの所へ行って来るから」
突然そう言われ、僕は少し驚いて顔を上げた。
「え?どうして…?父さん、どうかしたの?」
「ううん。別にどうもしないんだけど、ちょっと話し合いたいことがあるの」
「話し合いたいこと…?」
僕は何だか不安になり、母の横顔をじっと見つめた。
父は北海道へ単身赴任してもう2年になる。来年には帰って来ることになっているが、今のところ父に会えるのはお盆とお正月くらいだった。
その父に、一体何があったというのだろうか。
「あのね…、父さん、来年帰れる筈だったんだけど、仕事の都合で伸びそうなのよ。そうなると、あと5年はあっちなんですって」
「ええ…?」
突然の話に、僕は勿論驚いてしまった。父は来年帰れるものだとばかり思っていたのだ。
「それでね、家族があんまり離れ離れっていうのも良くないと思うし、七綱だって大学に行けば家から出ちゃうこともあるでしょ?だから、思い切って今年の内にお父さんのところへ行こうかって…」
「え…?」
サーッと、背筋に冷たいものが走った。
という事は、近々、僕は転校しなければならないのだろうか。
「そ、そんなっ、だって僕、学校…っ」
「うん、そうなんだけど…」
母もちょっと困った表情を見せた。
「でもね、七綱が高校に居る間くらいしか3人で居られないでしょう?そうなると、家族で一緒に居られるのって、後1年ちょっとだし…」
そう言われては、僕に返す言葉は無かった。
僕はまだ、はっきりと進路を決めている訳ではないが、母の言うように選ぶ学校によっては家から通えるとは限らない。そうなると家族一緒に過ごせるのは確かに後少しの間しかなかった。
「で、でも僕…、転校するのは…」
「うん…。七綱は新しい環境にすぐに慣れる方じゃないから大変だとは思うけど、お父さんもずっと寂しい思いしてて可哀想だしね。そろそろ、傍に行ってあげたいのよ」
「母さん、仕事は…?」
母は僕の言葉に軽く肩を竦めた。
「病院は人手が余ってるって訳じゃないから、私が辞めるのは困るだろうけどね。でも、事情を話せば何とかなると思うから」
「そう…」
僕だけ残りたいと言いそうになったが、結局僕は何も言えなかった。
父と母は、僕を入れた家族3人の暮らしを望んでいるのだ。それなのに、僕だけこっちに残りたいとは言えない。それは我侭だと思った。
食事の支度を終えて急いで食べると、母は病院へ出掛けて行った。
僕は後片付けを済ませると、急いでお風呂へ入った。
時間が無くて、髪を乾かしている暇が無く、僕は濡れた髪のままでバスルームから出ると、葦原が来るのを待った。
葦原に、さっきの話をしなければならないと思ったが、どう切り出したらいいのか分からない。
第一、葦原と離れ離れになることを考えたら、今から泣いてしまいそうだった。
階段に腰を下ろし、髪を拭きながらぼんやりしていると、玄関のチャイムが鳴った。
すぐに立ち上がってドアを開けると、この前と同じように後ろを気にしながら、葦原が素早く中に入って来た。
「七綱ッ…」
ギュッと抱きしめられて、それだけで泣き出しそうになった。
会えたことに対する感動と、それからさっきの話に対する不安が一気に僕を襲ったのだ。
「里久…」
胸に顔を押し付け、僕は名前を呼んだ。
「会いたかった…」
心からそう言って、僕は葦原の身体にしがみ付いた。
「俺もだよ。学校で顔見た時から抱きしめたかった」
言いながら、葦原は僕のまだ濡れた髪を撫でた。
部屋に入ると、この前のように葦原はまたすぐに僕をベッドへ連れて行った。
もっとちゃんと顔を見て、色々と話をしたかったのだが、葦原は今日も何処か焦っているようだった。
性急に何度もキスをして、僕のパジャマを脱がせた。
ただ、この前のように挿入を焦る様子は無く、何時ものように丁寧に僕の身体を愛撫してくれた。
その所為で、僕はこの前のように不安を感じることはなく、次第に葦原の与える快感に溺れ、そして気付くと激しく声を上げてしがみ付いていた。
「んぁっ、あっ…里久ぅ…ッ」
「いいよ、七綱…っ、先にイッって…」
ポイントをグイッと擦られ、僕は言われた通りに体を震わせた。
「は…、は…ぁ…ッ」
僕が達すると、葦原のキスが額に落ちた。
「このまま…、いい…?」
訊かれて頷くと、僕は彼の首に腕を回した。
「もっと…、もっと、里久…」



僕がシャワーを浴びて戻ると、葦原はベッドに横になって誰かにメールを打っていた。
その姿を見て、僕はまた、なんだか不安になった。
相手は誰なのだろう。
少なくとも今まで、葦原は僕の部屋で他の誰かにメールすることなんか無かった。
「里久…、何か飲む?」
訊くと、葦原は目を上げて笑みを見せた。
「うん、ありがと。なんでもいいよ」
「分かった。待ってて…」
僕は部屋を出て階下へ降りると、冷蔵庫を開けて清涼飲料水のペットボトルを2本持った。
部屋に入ると、葦原はもう携帯を持っていなかった。
「はい」
「ありがと」
葦原は受け取ると、すぐにキャップを開けて口を付けた。僕はその隣に腰を下ろしたが、飲み物を手に持ったまま、キャップを開ける気にはならなかった。
「里久…?」
「うん?」
声を掛けると、葦原はボトルから口を離して僕を見た。
言い出そうとして口を開いた。
でも、結局僕は転校するかも知れないことを言えなかった。
「あ…、あの…、暫くは学校に来られるの?」
急いで他の質問をすると、葦原は頷いた。
「うん。2週間後に撮影に入るんだけど、それまでは学校へ行けるんだ」
「そう…。良かった…」
僕が呟くように言うと、葦原の手が僕の項に掛かった。そして、優しいキスがこめかみに落ちた。
「ごめんな?まだ慌しいのが続くけど、もう暫く我慢して?」
「うん…」
寂しいけど、仕方が無い。でも、僕にはもうひとつの問題が出来てしまったのだ。
もうひとつの問題の方が、深刻だった。少しの間、葦原と会えないなら我慢も出来る。でも、転校したらもうずっと会えなくなってしまうのだ。
だが、言わなければならないと分かっていても、葦原にそれを言うのが怖かった。
「なあ、七綱…、もうひとつ、言っておきたい事があるんだ」
僕が躊躇ったまま黙っていると、葦原の方が言い辛そうに口を切った。
その目を見て、僕は再び不安になった。
そこに浮かんでいるのは罪悪感ではないのだろうか。
「な…に…?」
恐る恐る訊くと、葦原は目を逸らしてジュースを一口飲んだ。
「うん…。俺と一緒にCMに出る工藤結花って知ってるだろ?」
「うん…、勿論」
CMにも数本出ているし、ドラマにも出ている彼女を知らない訳がない。それに、葦原と一緒にCMに出ると知って、実は彼女の載っているファッション雑誌をこっそりと買っていたのだ。
「彼女な、テレビで見ると明るくて元気なイメージだけど、本当は引っ込み思案でナイーブな子なんだ。それで…、信じられないような話だけど、今の学校に馴染めなくて、登校拒否に近い状態らしいんだ」
「そうなの…?」
聞きながら、何故、葦原が彼女の話などするのか分からずにいた。そして、同時に不安はどんどん増すばかりだった。
「うん。事務所の方は仕事もどんどん入ってるし、彼女がそれでいいなら学校を辞めて仕事に専念してもいいだろうって考えらしいんだけど、彼女の親は納得してない。高校をちゃんと卒業出来ないようなら仕事は辞めてもらいたいって考えらしいんだ…」
テレビで見る工藤結花からは、確かにそんな事情は感じられなかった。バラエティ番組などには出たことがないので話すのを見る機会は無かったが、画面の向こうの彼女はいつでも明るく笑っていたのだ。
「事務所の方でも、上り調子の彼女に辞められるのは困るし、学校へ行ってもらいたいって思ってるんだが、彼女が今の学校には行きたくないって言ってるらしくてな。それで…、俺も驚いたんだけど、俺と一緒の学校に転校出来るなら、行ってもいいって言い出したんだ」
「え…?」
驚いて、僕は葦原の顔をまじまじと見た。
すると、彼は困ったような表情で僕の腕を両手で掴んだ。
「誤解するなよ?俺は別に、彼女と何かある訳じゃない。ただ、現場に居ても誰とも口を利かないし、居心地悪そうにしてたから話しかけただけなんだ。そしたら、少しずつ俺に慣れてくれたみたいで、それで俺とだけは親しく口を利いてくれるようになったんだよ。ただ、それだけなんだ」
“それだけ”と葦原は言った。
確かに彼にとっては“それだけ”かも知れない。
でもきっと、工藤結花にとっては“それだけ”ではないのだ。
葦原は自分の魅力を分かってない。
彼に優しくされたら、好意を持たない訳がないのだ。
それが芸能人だって、きっと例外じゃない。
「じゃあ…、彼女が僕達の学校に来るの…?」
何とか不安を押し隠し、僕は訊いた。
「ああ。多分、近々。編入試験が通ったらすぐに転校させたいって親が言ってるらしいから」
「そう…」
僕が思わず俯くと、葦原は唇を舐めて僕の顔を覗き込むようにした。
「七綱、本当に何にも心配ないから。俺は彼女のことをなんとも思ってないし、友達だとしか考えてない」
「うん…。うん、分かってる…。分かってるよ…」
頷いたが、顔を上げられなかった。
怖くて体が震える。
葦原を信じている筈なのに、それでも僕は別れの予感を、そして、それに対する恐怖を拭えなかった。
仕事の所為で急に忙しくなった葦原。
僕の転校。
工藤結花の転入。
全てが、別れに向かっているように思えてならなかった。
「七綱ッ…」
押し倒されて、僕はベッドの上に倒れた。
貪るように葦原にキスをされ、喘ぎながら彼にしがみ付く。
葦原は僕の目をじっと覗き込んで言った。
「分かるだろ?七綱だけだ…。七綱だけだよ?」
「うんっ…。うん…、里久…」



工藤結花が転校してきたのは思ったより早く、それから3日後だった。
勿論、学校中の話題になったし、野次馬が彼女の周りに押し寄せたのは言うまでもなかった。
でも、先生達から厳重に注意され、遠くから見るだけに留まった。
彼女は、希望を出したのか僕達のクラスに入った。
男子生徒たちのはしゃぎようは尋常ではなく、女子生徒たちも彼女を見てはヒソヒソと話をしている。でも、当の工藤結花は無表情で座っているだけだった。
でも、確かに魅力的な子で、モデルをしているだけあって身長も僕より遥に高かったし、化粧っ気もないのに素顔でも凄く綺麗だった。
今年の文化祭でミスに輝いた矢沢さんでさえ、彼女の前では霞んで見えてしまうほどだった。
「おっどろいたねえ…」
傍に来た野々宮さんが、小声で僕に言った。
「うん…」
僕の答えに眉を顰めると、彼女は僕の耳に口を寄せた。
「知ってたんだ?葦原から聞いてたの?」
「…うん。この前…」
「そっか…」
僕が見ている前で、葦原が工藤結花に近付いた。すると、今まで無表情だった彼女の顔がぱっと明るくなるのが分かった。
それを見て、僕は確信した。
やはり彼女は、葦原に特別な感情を持っているのだ。
思わず2人から目を逸らすと、野々宮さんがまた眉を顰めるのが分かった。
葦原の取り巻きたちはすぐに彼女を紹介してくれるように葦原に頼んだ。
それから、我も我もとばかりに2人の周りには人だかりが出来てしまい、それを、葦原が静めようとしているのが見えた。
きっと、葦原は彼女をああやって守り続けるのだろう。
彼はそういう男だ。
自分を追うようにしてこの学校に転校して生きた彼女に責任のようなものを感じているに違いない。
そして、それを放り出すような人間じゃなかった。
だから、僕はここに居る限り、こうして毎日、2人が一緒に居る姿を見続けるに違いなかった。

七綱だけだ

葦原は何度もそう言ってくれた。
その言葉を嘘だとは思わない。
でも、彼女に少しでも惹かれていないと言えるのだろうか。
自分を慕ってきた、あんなに綺麗な子を、少しも魅力的だとは感じないのだろうか。
彼女に惹かれているからこそ、それを否定しようとして僕をあんな風に抱いたのではないだろうか。
言い聞かせるように、何度も好きだと言ったのではないだろうか。
そう思うと、僕はもう恐怖で体が凍りつきそうだった。
それに、自分自身の転校の問題もある。
母は月曜に父のところへ行くことになっていて、そうなると遠くない内に僕の転校も本決まりになるだろう。
そのことを、僕は葦原に話さなければならない。
でも、どうしても言い出せなかった。
転校イコール別れだと思うからだ。
会えなくなったら、きっと葦原だって僕のことなんか忘れてしまうだろう。
それでなくても生活が忙しくなり、おまけに、すぐ傍にあんなに綺麗な子が居る。それも、間違いなく葦原に好意を持っているのだ。
僕の存在なんて、居なくなったらすぐに葦原の中から消えてしまうに違いなかった。
(もう…、終わるんだな…)
僕の、最高に幸せだった日々は、もうすぐ終わりを迎えるのだ。
指が自然と胸に伸び、シャツの上から葦原に貰ったリングに触った。
あれからずっと、体育の時以外外さなかった。
これからも、ずっと離さないと思う。
葦原がくれた、沢山の幸せと思い出と共に。
「北野、今日、ウチに来ない?」
肩を叩かれてハッとすると、野々宮さんが傍に立っていた。
もう帰りのHRは終わったらしい。
「え…?あ、うん。いいの?」
僕が聞き返すと、彼女は笑いながら頷いた。
「もち。いいから誘ってんじゃん。コンビニでなんか買ってって久し振りに喋ろうよ。ね?」
きっと、僕の様子から何かを感じたのだろう。慰めてくれるつもりなのだと僕は思った。
「ありがと…。じゃ、お邪魔する」
僕が答えて立ち上がった時、取り巻きを引き連れて葦原が工藤さんをエスコートするように教室を出て行くのが見えた。
彼女は事務所の車が校門まで来るので、葦原がそこまで送っていくのだろう。前に彼女の事務所から頼まれていると言っていた。
「ほら、行こ?」
腕を掴まれて、僕は出口から視線を戻すと鞄の中に教科書を仕舞い始めた。