candy
ちゃんと布団に入って寝なかった所為か、大樹は風邪を引いたようだった。
喉が、やけにヒリヒリして、唾を飲み込むのも辛い。
だが、その癖、喉が渇いて水分が欲しくて堪らなかった。
冷蔵庫を開けて、昨夜買ってきたミネラルウォーターを取り出すと、顔を顰めながら何度かに分けて飲み干した。
顔全体が腫れぼったい気がして、目から上がボーっとする。
だが、ノロノロと立ち上がって、ぐずぐずに掻き回してしまったプリンと飲み終わったペットボトルを片付けた。
ここにずっと居れば、勿論真純は帰って来るだろう。
だがもし、帰って来て自分の顔を見た時、迷惑そうな顔をされたらと思うと怖くて堪らなかった。
「なんだ、まだ居たの?」
もし、そんな事を言われたら、きっと死んでしまいたくなるだろう。
大樹は暖房とテレビのスイッチを消すと、コートを着込んで表へ出た。
早朝の空気は冷たい。
それでなくても風邪気味の身体に、冷気が染み透った。
今頃、真純は国分の部屋にでも居るのだろうか。
自分が待っている事を知りながら電話ひとつくれなかったのは、やはり、そういう意味だと思うべきなのだろうか。
だが、まだ大樹は、真純の気持ちが完全に自分から離れてしまったのだとは思いたくなかった。
(ただ、忘れただけだよ…。きっと、楽しくて忘れちゃったんだ…)
ブルッと、寒さで身体が震えた。
喉も、さっきよりも痛くなっている。
大樹は途中のコンビニへ寄ると、喉用のキャンディを一袋買った。
色々なフルーツの味が入っているその袋を開け、ひとつ取り出す。
撰んだ訳ではなく、出てきたのは、オレンジフレーバーだった。
包みを開けて口の中へ入れると、舐める間もなく奥歯でガリガリと噛み砕いた。
飲み込んだ後でやっと気付くと、大樹はくしゃっと顔を歪めた。
「噛んじゃったら、駄目じゃん…」
キャンディさえも、ゆっくり舐めている余裕が今の自分には無いのだ。そう思うと、情けなくて堪らなかった。
部屋に帰って暖房をつけると、大樹はコートを脱いだだけでベッドの中に潜り込んだ。
ホーッと息を吐き、すぐに目を瞑る。
今日は午後1番から講義があったが、休んでしまおうかと思っていた。
酷く身体が重い。
それはまるで、心の中が反映しているかのように思えた。
だが、暫くするとテーブルの上に置いた携帯が鳴り出した。
「真純…?」
大樹はすぐに起き上がると、携帯を手に取った。
急いで受信を押し、耳に当てる。すると、すぐに真純の声が聞こえた。
「大樹?今、何処?」
「あ…、自分の部屋…」
「そうか。…昨夜、待ってた?ごめんな?」
真純の声を聞いて途端に安心したのか、大樹は力が抜けてそこへ座りこんだ。
「う…、ううん。だって、何時になるか分からないって言ってたもんね。俺が…、勝手に待ってたんだから、いいんだ」
「今帰って来たら、まだ部屋が暖かかったから…。きっと、大樹、朝まで待ってたのかなって思って、…ホント、ごめん」
「ううん…」
優しい言葉に大樹の鼻の奥が熱くなった。
帰って来ないで、もう少し真純の部屋に居れば良かったと後悔した。
「もっと早く帰れる筈だったんだけど…。実はさ、昨夜、トラブルがあって…」
「え…?トラブルって?」
驚いて聞き返すと、真純がすぐに説明してくれた。
「演奏が終わったのが9時くらいでさ、その後、バンドのみんなとその友達連中の12、3人で打ち上げに繰り出してさ、最初は居酒屋で飲んで、その後2次会ってことで、残った8人で場所を移動する事になったんだけど…。バンドの何人かが酔っ払いと小競り合いになってさ、俺たちが留めに入った時には、もう相手を殴っちゃってて…」
「ええ?」
「警察を呼ばれちゃって、俺たちも全員、事情聴取されて…。それから、怪我したヤツを病院へ連れて行ったりとか色々あって、気付いたら朝になってたんだよ」
「そうだったの…。大変だったね。真純は怪我してないの?」
「うん、俺は平気。連絡しようと思ったんだけど、昨夜はくたくたでさ。ごめんな?ほんと…」
大樹は受話器を耳に当てたまま首を振った。
「ううん。そんなことがあったんだもん、仕方ないよ。ホントに俺、なんとも思って無いから」
「そ?なら良かった…。今日、学校来るだろ?」
「うん、午後から」
「昼飯、一緒に食おうよ。“檸檬”に行くから」
「うん、分かった。じゃ、後でね」
「ああ、後で…」
電話を切った後、大樹は嬉しそうに笑みを浮かべた。
真純は自分が待っている事を忘れた訳ではなかったのだ。
無視した訳でもなかったのだ。
帰って来られなかったのにはちゃんとした理由があったのだ。
「良かった…」
きっと全部、自分の取り越し苦労だったのだ。
真純は以前と変わってなんかいない。自分たちの関係は、変わってなんかいなかったのだ。
携帯電話を閉じ、それを額に当てると、大樹はもう1度安堵したように笑みを浮かべた。
“檸檬”は大樹たちが良く行く、大学近くの喫茶店だった。
ランチが安くて、学生が良く利用している。
大樹は少し早めに部屋を出て“檸檬”へ向かった。
まだ喉が痛かったので、朝買ったキャンディの袋を鞄の中に入れ、時々取り出しては口の中へ放り込んだ。
今度は意識して、噛まずにゆっくりと舐める。
そうすると、喉の痛みが幾らか増しになってきた。
店に入ると窓際の席が空いていた。大樹はそこへ座り、連れが来てから後で注文すると告げ、水だけを貰った。
キャンディをまたひとつ取り出し、今度はレモン味のを口へ入れた。
その時、扉が開いて国分が店へ入って来た。
(あ…)
嫌な感じが、大樹の鳩尾を過ぎった。
さっき続けて客が入って、他には席が空いていない。国分は大樹の姿を見つけると、笑みを見せて近付いて来た。
「おはよう。ここ、いい?」
嫌だ、と口をついて出そうになるのを飲み込み、急いで頷いた。
「うん、いいけど…」
すると、コートを脱いで脇に置きながら、国分は大樹の前に腰を下ろした。
「何にしたん?」
屈託の無い笑顔でそう訊くと、国分は自分もメニューを開いた。
「まだ、頼んでない。真純が来てから…」
「ふうん。俺はパスタランチにするかな…」
国分は水とお絞りを持って来た店員に日替わりパスタランチを注文した。
「昨夜…、大変だったみたいだね」
喋りたくも無かったが、大樹は社交辞令でそう言った。すると、苦笑いしながら頷き、国分は一口水を飲んだ。
「聞いた?ひっでえ目に合ったよ、まったく…」
「怪我しなくて良かったね」
「まあな。俺たちは無事だったけど、宮下は、とばっちり受けて殴られた。目の下に青痣が出来てるよ。可哀想に…」
そう言ってまた水を飲み、国分はふと大樹の顔を見上げた。
突然、大樹が口の中のキャンディを噛み砕いたのだ。その音に、気付いたらしかった。
「なあ、まさかさ…、朝まで真純が帰って来るのを待ってたとか?」
「え…?」
「なんか寝不足気味の顔してるから、そうかなって」
大樹が答えずにいると、国分は少々呆れたように笑った。
「あのさ、そうトコがうざいんじゃねえ?」
「…え?」
その言葉に、大樹の身体が強張った。
「いや、真純にだって他に友達もいるし、付き合いもあるしさ。それを縛りつけるような事するのって、どうかなって。真純も窮屈なんじゃないかって、さ…」
「な、なにそれ?真純が俺の事、そう言ったの…?窮屈だって?うざいって?」
すると、国分は肩を竦めた。
「まあ、はっきり言葉にして言った訳じゃないけどさ」
「ひ…、酷い、そんな…。嘘だ…。なんでそんな嘘つくの?……酷いよ、酷い…」
真純が国分にそんな事を漏らす筈が無い。
自分の事をそんな風に思っているなんて信じられない。
いや、信じたくない。
「嘘なんかじゃないよ。意地悪で言ってるつもりも無い。たださ…」
カタカタと大樹の身体が震え出した。
煩いッ。
おまえの言葉なんか、もう聞きたくない。
「わっ…」
バシャッと、コップの水を浴びせられ国分は驚いて叫んだ。
目を見開いて自分を見る国分を後に残し、大樹はコートと鞄を掴むとさっさと立ち上がって店から出て行った。
(酷い…、酷い、酷い…)
早足で歩きながら、大樹は流れてくる涙を手の甲で拭った。
(ホントなの?真純…。ホントに俺の事……)
自分の知らない所で、真純は本心を国分にだけ打ち明けていたのだろうか。
今日、あそこに国分が現れたのは偶然じゃなかったのだろうか。
彼もまた真純と待ち合わせていたのだろうか。そして、2人で自分に何かを言い出すつもりだったのだろうか。
(そんなの嫌だッ……)
闇雲に足を運びながら、大樹の心は、またどんどん淀んでいった。