soft cream


嘘……

嘘………

嘘………

大樹はもう、回りにある物が何一つ、目に入らなかった。
顔を紅潮させ、息を荒げ、恐ろしいほどの早足で歩き続けた。
さっきの、国分の言葉がグルグルと頭の中に木霊し続ける。
時折、溢れて頬を伝う涙を乱暴に拭い、大樹はただ何かから逃げるように歩き続けた。
(違う…ッ。あんなの嘘だ。全部アイツの嘘だ…ッ)
国分は自分と真純の仲が面白くないのだ。
だから、裂こうとしてあんな事を言ったのだ。
真純が自分をウザがっている訳がない。
今日だって、真純の方から誘ってくれたのだ。
それなのに…。
「あっ…」
突然の叫び声と激しい衝撃で、大樹は突然、夢から覚めたように立ち止まった。
身体に当ったのは、恋人と連れ立ってすぐそこのコンビニから出て来た女の子だった。
ベトッと何かが髪にくっ付いたのに気付き、大樹はそこに手をやった。
ひやり、と手に何かが触った。
そして大樹は、そのまま足元に眼をやった。
すると、女の子が手に持っていたのだろう。そこには無残にも地面に落ちて崩れてしまったソフトクリームが落ちていた。
「ご…ごめんなさい、俺…、余所見してて…」
呆然としたまま大樹が謝ると、彼女の脇に立っていた、やはり大学生くらいの青年が首を振った。
「いや、俺らも喋りながら歩いてて気付かなかったし…」
「あ、あの、弁償しますから」
「いいって、いいって。…それより、あんたこそ大丈夫か?」
大樹の様子が普通じゃない事に気付いたのだろう。青年は些か心配そうな顔でそう言った。
「え…?」
大樹がまだぼんやりとした顔で彼を見ると、横から彼女が言った。
「髪の毛、拭いた方がいいよ。クリーム付いちゃった…」
「あ、はい…」
「ティッシュ、ある?」
「いえ…」
「待って…」
そう言うと、彼女は鞄の中からポケットティッシュを出して大樹に渡してくれた。
「これ使っていいよ。あげる」
「あ、ありがと…」
大樹が慌てて礼を言って受け取ると、新しくソフトクリームを買うつもりなのだろう、2人は頷いて、また店の方へ戻って行った。
その2人の後ろ姿が店の中へ消えるまで見送ると、大樹はもう1度、足下に落ちたソフトクリームを見つめた。
崩れて、見る影も無い。
後はただ、溶けて地面に吸われるのを待っているだけだった。

まるで、今の自分と良く似ている…。

貰ったポケットティッシュを握り締めたまま、大樹はまた歩き始めた。
だが、今度は闇雲に足を進めた訳ではなく、今居る所を確認すると、自分の部屋に帰る為に方向を変えた。
歩きながらティッシュを出すと、髪の毛を掴むようにしてそこを拭った。
鏡を見ている訳ではないのでクリームの付着した正確な位置は分からない。
だが、大樹は構うこと無くいい加減に髪の毛を拭うと、クリームでべとつくティッシュを丸めて無造作にポケットへ突っ込んだ。
ぶつかった衝撃で、大樹は我に返ったようだった。
本当は、もう知っていた。
真純がとっくに自分を見てくれなくなっていたこと。
自分と居るより、国分といる時の方が遥かに楽しそうに見えたこと。
自分が未練たらしくしがみ付いているから、仕方なく我慢してくれていたのだ。
本当は、国分の言う通り、ウザがっていたのだろうと思う。
「ごめんね…、真純…」
呟くと、大樹はまた流れてきた涙を頬から拭った。
幾ら真純を好きでも、心を移してしまった彼を縛りつけて置く権利なんかない。
「もう、自由にしてあげるから…。ごめんね…?ごめんね…」
何度も涙を拭い、大樹は手に持っていたコートを着るのも忘れて足早に自分の部屋へ向かって歩いて行った。



部屋に帰ると、大樹は放心したようにベッドに座った。
今頃、国分は自分に水を掛けられた事を真純に言いつけているだろう。
真純は怒っただろうか。
自分に腹を立てただろうか。
大樹は悲しくなって、そっと溜息をついた。
冷たい空気の中を早足で歩いてきた所為か、頭がガンガンと痛んだ。
だが、大樹はポケットから携帯電話を取り出すと、真純へ向けてメールを打ち始めた。
さっきのソフトクリームの所為で指がべたつく。
だが、大樹は気にも留めなかった。

“黙って帰って来ちゃってゴメン。それから、国分にも謝らずに帰って来ちゃってごめんなさい。酷いことして、悪かったと思ってます。”

そこまで打って、大樹は画面を見つめたまま指を止めた。
次の言葉を打つのが、酷く嫌だった。
また、哀しくて涙が込み上げそうになる。
だが、打たない訳にはいかない。もう、真純を自由にしてやると決めたのだから…。
大樹は震え出した自分の指を励ましながら、またボタンに置いた。

“今まで有難う。我が儘ばっかり言って真純を困らせたり、嫌な思いばかりさせてごめん。もう、俺のことなんか好きじゃ無いって分かってたのに、いつまでも付き纏って悪かったと思ってます。もう、俺の事はいいよ。ほんとに有難う。さよなら”

打ち終わった後、また大樹は画面を見つめたまま動かなくなった。
送信ボタンに何度も指を掛けるが、どうしても押す事が出来ない。
やがて、震えた両手を持ち上げるとそのまま顔を覆った。
思い出すのは楽しかったことばかりだった。

初めてデートしたこと。
初めてキスしたこと。

2人で過ごした半年間の思い出は、捨て去るには大切過ぎた。
もう1度やり直せるなら、何でもするのに。一体、何がいけなかったのだろう。
どんなものにも執着しない真純。
思えば初めから、自分のことも特別だとは思っていなかったのかも知れない。
誰にでも優しい真純。
自分1人に向けられていたと思った優しさは、他の大勢へ向けられるものと何ら変わりはなかったのかも知れない。
それをただ、自分1人が勘違いしていたのだろうか。
考えれば考えるほど、大樹にはそんな風に思えてきた。
頭痛が、さっきよりもどんどん酷くなってきた。
まるで、頭が割れるように痛くなり、大樹はベッドの中に潜り込んで横になった。
すると、枕の脇に置いた携帯電話から着信音が響いた。
「…もしもし…?」
躊躇ったが、大樹はボタンを押して携帯を耳に当てた。
口から出たのは、自分でも驚くほど皺枯れた声だった。
「もしもし、大樹?」
「…うん」
声がおかしい所為か、真純は大樹に確かめて来た。
大樹が返事をすると、すぐに怒ったような声が耳元で聞こえてきた。
「おまえ、なにやってんだ?どんな理由か知らないけど、ちょっとおかしくねえ?」
やはり、国分に水を掛けた事を怒っているらしい。真純は強い口調でそう言った。
「…ごめんなさい」
涙を堪えて、大樹は謝った。
“どんな理由で”大樹が国分に水を掛けたのか、真純にはどうでもいいのだ。
それを訊こうともしない。
きっと、聞きたくも無いのだろう。
込み上げてくる嗚咽を噛み殺そうとして大樹は唇を噛んだ。
すると、耳元で真純の大きな溜息が聞こえた。
「この頃、少しおかしいよ。なあ、大樹、何かあるならちゃんと俺に言えよ」
何とか泣くのを堪えると、大樹はやっと口を開いた。
「……もう、いいんだ。国分には後でちゃんと謝るから。…もう、俺のことはいいよ。真純…、ホントにごめん。ごめんな…?」
それだけを言うと、大樹は一方的に電話を切った。
そして、携帯の電源を切ると、それを枕の脇へ置いてまた横になった。
酷く疲れた。
頭も、割れるように痛かった。
喉の痛みも、気付けば唾を飲み込むのさえ辛くなっていた。
締め付けられるような胸の痛みに耐えながら目を瞑ると、大樹は全てを忘れようとして枕に瞼を押し付けた。



温かい湯気のようなものを感じて、大樹はふっと目を覚ました。
ぼんやりと見つめると目の前に誰かが居る。
そして、お湯で絞ったタオルで髪を拭ってくれているのが分かった。
頭の痛みが蘇って、思わずギュッと目を瞑ると、髪を拭っていた真純の手が止まった。
「起きたか?髪の毛になに付けたんだ?カパカパになってるぞ」
「…ソフトクリーム…」
相変わらずがさがさした声がその唇から漏れ、真純は眉を顰めた。
「今朝まで俺のこと待ってたから、風邪引いたんだろ?こんなに熱がある…」
心配そうにそう言って、真純は大樹の首筋に手を当てた。
「さっき、酷い声だったから、もしかしてと思って…。大樹、風邪引くとすぐに扁桃腺が腫れて熱が出るんだから、気をつけなくちゃ…って、待たせた俺が悪いんだけどな…」
言いながら、真純はまた大樹の髪を拭い始めた。
それを、大樹は不思議なものを見るようにして眺めた。
何故、来たのだろう。
もう怒っていないみたいに見えるのは気の所為なのだろうか。
本当は、携帯が繋がらなくなったから、直接文句を言いに来たのだろうか。
だが、それなら、何故こんなに優しくしてくれるのだろう。
「うん、大体落ちた。けど、なんだって髪の毛にソフトクリームなんか付いたんだ?」
「……ぶつかって…」
「持ってた奴と?」
訊かれて大樹は頷いた。
「顔が真っ赤だ…。体温計、あったか?」
首を振ると、真純は頷いた。
「風邪薬と解熱剤の買い置きは?」
「あると思う…。冷蔵庫に…」
そう答えると真純は苦笑した。
「なんで冷蔵庫に薬を仕舞うんだ…?」
だが、そう言いながらも真純は大樹の髪を撫でた。
「じゃあ、今お粥かなんか作ってやるから、それ食べて薬飲もう。待ってな」
病気だから、今だけ優しいのかも知れない。
いや違う。
いつでも、真純は優しいのだ。
誰にでも。
また勘違いしてはいけないのだ。
特別だなんて思ってはいけないのだ。
「ありがとう…」
大樹の言葉に真純は頷いて立ち上がった。
だが、キッチンへ向かおうとすると、そのポケットで携帯が鳴った。それを取り出しながら、真純は冷蔵庫のドアを開いた。
「もしもし?え?……今からは駄目だって。…うん、大樹が凄い熱なんだ。風邪引いて…。え?だから、駄目だって言ってるじゃん。……無理言うなよ。放っとける訳ないだろ?俺が看てやらなきゃ誰が看るんだよ?…だから、今日は無理。うん…うん…、後で電話するから。じゃな?」
会話する低い声がキッチンの方から聞こえてきた。
狭い部屋だから、大樹にも全部聞こえてしまった。
相手は多分、国分だろう。
「真純…?」
呼び掛けると、真純は振り向いてまたベッドの傍へ来た。
「うん?なに?喉乾いた?」
喉はカラカラだった。だが、大樹は首を振った。
「行かなくていいの…?」
「え?」
「国分が待ってるんでしょ?行かなくていいの?」
「大樹…?」
怪訝そうに眉を寄せ、真純はそこへ座ると大樹と目線を合わせた。
その目をじっと見る内に、大樹の目には涙が滲んできた。
「俺…、もう分かったから。真純が国分と居る方が楽しいのも…、もう、俺の事を好きじゃないのも知ってるよ。だからもう、無理しないで…?」
「大樹…」
真純の指が大樹の涙を拭い、額に額が押し付けられた。
熱の所為で、大樹には真純の額はひんやりと冷たく感じられた。
「そうじゃない…、そうじゃないよ、大樹…」
額を押し付けたまま、真純が辛そうに言った。
その声を聞いている事が、大樹には酷く辛かった。
国分と居る時の真純はあんなにも楽しそうに笑っているのに、自分にはもう、そんな力はないのだろう。
「いいよ。いいんだ…。もう、いいんだよ…」
大樹の目から、また涙が零れて落ちた。
「大樹…。ごめん…、ごめんな…?」
大樹は僅かに首を振ると、疲れたように目を閉じた。



ベンチに座り、大樹はぼんやりと学食の中を眺めていた。
すると、同じゼミの友達が通り掛って隣へ腰を下ろした。
「なに見てんの?」
「うん…?」
曖昧に返事をし、大樹は視線を移すことなく学食の窓の中を見続けた。
「真純たち?…あいつらがどうかした?」
友達は大樹の視線の先に気付いたらしく、そう訊いた。
大樹は薄っすらと笑みを浮かべると首を振った。
「ううん…、別に。ただ、楽しそうだなと思って…」
「うん。仲いいよな、あいつら…」
その言葉に大樹は頷いた。
「うん…、そうだね…」
窓の向こうで、真純が笑いながら国分の肩を叩いていた。
「なあ、飯、行かねえ?」
学食の中を指さした友達に、大樹は初めて視線を移した。
「ううん、俺はいい。檸檬に行くんだ」
「そっか、じゃ、またな」
「うん…」
頷いて視線を戻すと、もうそこに真純の姿は無かった。
「大樹、お待たせ」
外に出て来た真純が、近付きながら笑った。
「ううん。もういいの?」
「うん。言ってたDVD借りたぞ。今晩一緒に見ようよ」
「うん」
大樹が頷いて立ち上がった時、さっきの友達が戻って来た。
「俺もやっぱ、檸檬にするー。今日のBランチ最低だわ」
「なんだっけ?酢豚?」
「そうそう。学食の酢豚食ったことある?」
顔を顰めた友達に大樹は笑いながら首を振った。
「なーい。大体俺、嫌いだもん、酢豚」
「俺はある。カッチカチでさ、噛み切れねえのな?肉が…」
そう言った真純に友達はウンウンと頷いて見せた。
「人間の食いもんじゃねえ、あれは…」
その言葉に、真純も大樹も声を揃えて笑った。
「真純、さっきよりも楽しそうじゃん」
そう言った友達を大樹は驚いて見上げた。
「え?」
振り向くと、真純がきょとんした顔をして此方を見ていた。


「国分はただの友達だよ。誤解させたならごめん…。大樹を不安にさせてたんだな、俺…」
あの日、真純はそう言って大樹の髪を何度も撫でてくれた。
その言葉を、大樹は信じようとした。
不安が全て拭い去られた訳ではなかった。だが、それでもいいと大樹は思ったのだ。
真純は自分を選んでくれた。
自分が特別だと言ってくれた。
だから、それでいいのだ。
「何でもないよ。早く行こう?また外で1時間も待つの嫌だよー」
「この時間じゃ危ないなぁ。多分、席が空くまでに30分は待たされるぞ」
「うげぇ…」
顔を顰めた真純がさり気なく大樹の手を掴んだ。
そして、その手が冷えている事に気付いたのだろう。繋いだまま、自分のコートのポケットへ突っ込んだ。
「おまえらさぁ、少しは回りを憚れば?」
呆れたようにそう言った友達に真純は苦笑して見せた。
だが、ポケットの中で繋がれた大樹の手はそのまま離さなかった。
大樹が見上げると、真純の唇には薄っすらと笑みが残っていた。
それが嬉しくて、大樹は自分も笑みを浮かべると、もう一方の手を自分のポケットの中へ突っ込んで”檸檬”へ向けて歩き始めた。